マトリ歴40年の著者が、薬物犯罪と捜査の真相を告白!「第三次覚醒剤乱用期」の日本で何が起きている?
公開日:2020/3/17
2019年11月16日に女優の沢尻エリカが、2020年2月13日に歌手の槇原敬之が、逮捕された。どちらも合成麻薬「MDMA」や危険ドラッグなど、法律で禁止されている薬物を所持した疑いがある。
有名芸能人の薬物がらみのニュースが流れるたびに、私たちは驚愕して芸能界の薬物汚染を糾弾する。しかし目に見えないだけで、薬物の危険は私たちの身近に潜んでいる。今もどこかで売人たちが危険な薬物を売りつけ、破滅への快楽に浸る人々がいるのだ。薬物に対して「絶対に手を出さない」という断固たる意志を、どんなときも強く持たなければならない。
なぜそんな当たり前のことを言うのか。それは『マトリ 厚労省麻薬取締官』(瀬戸晴海/新潮社)を読めば嫌でもわかる。著者は厚労省麻薬取締官、通称マトリとして約40年間も薬物事犯者と闘い続けてきた瀬戸晴海さん。本書でつづられる内容は衝撃的である。
日本は「覚せい剤の一大マーケット」
正確な資料はないが、本書によると「不正薬物の世界的な取引は年間50兆円を優に超える」という。これはフィリピンの国家予算の約6倍であり、日本のお家芸の自動車産業の売上高が約70兆円(2016年)であることから、いかにその規模が大きいかわかる。
この世界規模のマーケットを巡って、かつて世界中の薬物密売・密輸組織が血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。しかし近年になって、企業のように「互いに利益をあげるほうが好ましい」と考えるようになる。いわゆる多国籍化とサプライチェーンである。
この大変迷惑な話は、なんと日本に関係してくる。というのも日本は「覚せい剤の一大マーケット」だからだ。意外にも覚せい剤は、日本で生み出された。大麻のように植物を育てる必要はなく、化学薬品さえ入手すれば比較的簡単に作れてしまう。
はじまりは第二次世界大戦の終わり、戦争でひどく疲弊した人々の間で「ヒロポン」という名の覚せい剤が一気に拡散する。覚せい剤は使用者を悲惨な姿へ変えていき、やがて「ヒロポンは国を滅ぼす」という声さえ出てきた。あまりの事態に政府は、1951年に覚せい剤取締法を施行。徹底的な取り締まりによって落ち着いたように見えた。
しかし1970年代になって暴力団の全盛期が訪れ、新たな資金獲得手段として覚せい剤の密売が行われるようになる。さらに中国や台湾をはじめとする海外での密造・密輸が行われるようになったこと、バブル時代を経ることで若者にも薬物乱用が浸透したこと、ポケベルや転送電話が登場して密売組織の販売経路が巧妙化したことなどが原因で、覚せい剤が日本にしっかりと根付いてしまった。それでも暴力団に対する締め付け強化と徹底した薬物の取り締りによって鎮静化の兆しを見せる。
現在は第三次覚醒剤乱用期の状況にある
ところが現在、覚せい剤が再び蔓延している。まずインターネットの発達により薬物の密売ルートが多様化した。かつては暴力団が不正薬物の元締めだったが、現在ではフリーランスの売人さえ登場して不正薬物をばらまく。
また諸外国の「大麻合法化」が日本の一部の人々を勘違いさせ、「大麻は体に悪いものではない」という歪んだ風潮を生み出し、加速させてしまった。瀬戸さんは本書で、大麻は他の不正薬物に比べて依存性が少ないことを認めている。しかしこのようにも述べている。
大麻は、「gateway drug(門戸開放薬)」と言われる。大麻の使用が、他の違法薬物の使用につながる重要なステップになるということだ。
大麻を使用することで他の違法薬物に興味を示してしまい、最終的に覚せい剤をはじめとする強力な薬物に侵されて破滅の道へ進むのである。大麻は言語道断で不正薬物であり、どれだけ都合のよい事実を並べようとも一度手を出せば「薬物をやめるか」「人間をやめるか」、究極の二択を選ばなければならない。
さらに海外の犯罪組織の登場が厄介だ。瀬戸さんによると、日本の覚せい剤の1gの末端価格は6万~7万円。この価格は十数年ほど、ほぼ変化がない。世界中のどこを見渡しても、これだけの高値取引を行う国はない。覚せい剤の製造が比較的簡単であることも重なって、海外の犯罪組織がこぞって日本に覚せい剤を「供給」するようになった。
2015年以前までは、大規模摘発があった年を除くと、覚せい剤の押収量はおおむね300~400キロだった。ところが2016年に入って、その押収量が激増。2019年まで4年連続で1トンを超えた。
瀬戸さんはこの異常事態を「第三次覚醒剤乱用期」と表現し、本書で私たちに警告を送る。「絶対に不正薬物に手を出してはいけない」と。
おまえは見つけたらコロス!!
しかし日本も不正薬物がばらまかれるのを黙って見ているわけではない。薬物事犯者たちと日夜闘い続ける組織がある。そのひとつが厚労省麻薬取締官、通称マトリである。
海外の犯罪組織は巧妙な手段で覚せい剤を日本に密輸しようとする。たとえば道路の舗装で使用される「ロードローラー」という大型重機だ。この車体に穴を開け、大量の覚せい剤を隠す。そして上からていねいに塗装することで不審な痕跡を消して、巧みに日本に持ち込むわけだ。
マトリはこうした密輸を防ぐべく世界中の捜査機関と連携して「泳がせ捜査」を行い、犯罪組織の摘発を続ける。本書では瀬戸さんが体験した摘発エピソードをいくつも紹介しているので、映画さながらの緊迫感を味わうことができる。
そして本書を読んで一番印象に残っているのが、不正薬物に手を出した人々の末路ともいうべき姿だ。あるマトリ捜査官が撮影した「覚せい剤事件の逮捕現場の写真」がおぞましい。被害妄想状態の覚せい剤中毒の男が、別居する妻に向けて書いた文章がある。
〈おまえは、俺、家、ネコ、イヌ これを捨てた! このうらぎりもの!! 自分勝手もここまでだ!! おまえはコロス〉
〈よくも俺から子供をとったな!! おまえは見つけたらコロス!! 子供は親なし おまえのせい〉
文章だけでも冷や汗が垂れるのだが、驚くべきことにこの文章は家の「ふすま」に書かれていた。まったく正気ではない。どれだけ男が覚せい剤で錯乱し、家族を恐ろしい目に遭わせてきたか想像にかたくない。このようなエピソードも本書でたくさん紹介されている。
ときどき不正薬物を支持する人々の中に、「誰にも迷惑をかけていない」「個人の自由だ」という声があがる。思い違いも甚だしい意見だ。2014年に危険ドラッグが蔓延したときは、乱用者による自動車の暴走事故が多発した。薬物関連の事件を調べれば、通り魔や殺人など、無関係な周囲を危険に巻き込む「二次事件」がいくらでも出てくる。これのどこが「誰にも迷惑をかけていない」のか。
不正薬物は断固として社会から排除すべき異物だ。本稿で何度も繰り返しているが、もう一度はっきりと言いたい。薬物に対しては、「絶対に手を出さない」という断固たる意志をどんなときも強く持たなければならない。本書はそんな当たり前の決意を、より強く思わせてくれる1冊だ。
文=いのうえゆきひろ