夫が貯めた風俗店のポイントカードを発見! 問い詰めることもできない気弱な専業主婦の自分探し
公開日:2020/3/21
もしも夫が風俗に通っている、と知ってしまったら…。『たおやかに輪をえがいて』(窪美澄/中央公論新社)は、たった1枚のポイントカードから凪のように平穏だった専業主婦の日常が変わり始める長編小説である。
主人公の絵里子は52歳。2歳上の夫と、大学2年生の娘と暮らしている。夫の俊太郎は物静かな性格で、酒に溺れたり、暴力を振るったりすることはない。娘の萌はひどい反抗期はあったものの、特に問題を起こすことなく大学に進学した。
そんな絵里子の穏やかな日常は、たった1枚のポイントカードで揺らぎ始める。家の中で見つけた、風俗店のポイントカード。そのカードにはスタンプが貯まっていて、日付をみると月に1度のペースで通っていることが分かる。
夫が風俗通いをしている(かもしれない)。絵里子は夫にカードを突き付けて、責め立てることができるようなタイプではない。そんな中、絵里子は娘の萌が危険な恋をしていることも知ってしまう。
ひとりで悶々と悩み、真実と向き合う覚悟ができない絵里子。結局、気づかないふりをして無難にやり過ごすしかないのだろうか――?
結論から言うと、本作は夫のため、娘のため、と生きてきた絵里子が家族の秘密を知ったことをきっかけに「自分」を取り戻すまでの物語である。その転機となるのが、美容整形で美しくなった同級生の詩織との再会だ。
本当は女性が好きな人間であると気がついたこと、ある女性への失恋をきっかけに顔を変えたことを、絵里子は詩織からまっすぐに打ち明けられる。そして現在交際中の年下の彼女・みなもを紹介されるのだが、みなもは初対面で絵里子の話を聞いて「なんか、きもちわるーい」とこぼす。
「男性の面倒みて、毎日、毎日、家事に子育て……なんかきもちわるい。それって、家政婦さんの仕事じゃないの? 家政婦さんがやればいいんじゃない?」(p.82)
すべては夫のため、娘のためと毎日食事を作り、家のなかを整えてきた絵里子にとって、みなもの言葉は辛辣だ。しかしそれに対してさえ、絵里子は「違うよ」とはっきり強くは言い返せない。詩織やみなもと接するうちに、絵里子は「自分」というものがすっかりと消えていることに気がつく。
家族と一旦距離を置き、自分の本当の気持ちを探し始めた絵里子。彼女は旅先で知り合った乳がんを患う老婦や、みなもの友人である風俗嬢・楓など、自分とはまったく違う人生を歩む女性たちとの交流を得て、「これからどうしたいのか」を真剣に考え始める。
個人的に印象深かったのは、物語の後半部分。風俗をするために下着を買いにきた“女の子”を絵里子が接客するシーンだ。絵里子は自分探しの間、輸入下着の店を営んでいる詩織の手伝いをしており、この時はひとりで接客をしていた。その女の子は母親の病気や大学の授業料のために、自分が風俗をやるしかないのだと絵里子に打ち明ける。
やっぱり怖い、と泣き出す娘の萌と同い年くらいの女の子。絵里子から見れば、目の前で泣いているのは女性ではない。まだ女の子なのである。風俗、という言葉で、絵里子の頭には夫の姿もよぎる。しかし絵里子は女の子の手を取った。
「下着、似合うものを選んであげる。それに少しだけどサービスもしてあげる」
そう言って絵里子は女の子の手をとった。この子が生きていくための下着を選ぼう。そんな気持ちでお客様に下着を選ぶなんて初めてのことだった。(p.356)
絵里子は「前だけを見るの」というアドバイスめいた言葉とともに、その女の子に似合う下着をプレゼントする。とても夫の風俗通いにクヨクヨしていた女性とは思えない、たくましさを感じさせるシーンである。
人によっては、こうした絵里子の変化に戸惑いを覚えるかもしれない。絵里子の変化は喜ばしいはずであるのに、これまでの生活との“別れ”も予感させるからだ。それくらい、絵里子は見違える。自分を取り戻した絵里子なら、わざわざ家庭に戻らなくても、ひとりで生きていけるのではないか。
絵里子は夫に対して、最後にある行動を起こす。そのラストシーンは妻でも、母でもなく「自分」を生きるという喜びや感動を、改めて教えてくれた気がする。
文=ひがしあや