「芸能人の不倫」「大手企業CMの差別表現」が許せない!! 誰しもがなり得る“正義中毒”って…/『人は、なぜ他人を許せないのか?』①
公開日:2020/3/27
炎上、不謹慎狩り、不倫叩き、ハラスメント…世の中に渦巻く「許せない」感情の暴走は、脳の構造が引き起こしていた!「人を許せない」という感情がどのように生まれるのか、その発露の仕組みを脳科学の観点から解き明かしていきます。
はじめに ── 許せない自分を理解し、人を許せるようになるために
「我こそは正義」と確信した途端、人は「正義中毒」になる
あなたは、どんなときに人を「許せない」と思いますか?
「恋人や配偶者が浮気をしていた」
「上司からパワハラやセクハラを受けた」
「信頼していた友達から裏切られた」
こんな経験をしたことがある、あるいは身近な人が経験しているという方は、多いのではないでしょうか。ここで生じる「許せない」感情は、自分や自分の近しい人が何らかの被害を受けたことに対する憤りであり、強い怒りが湧くのは当然です。
では、こういう場合はどうでしょうか?
「清純な優等生キャラで売れていた女性タレントが不倫をしていた」
「飲食店のアルバイト店員が悪ふざけの動画をSNSに投稿した」
「大手企業がCMで差別的な表現をした」
もちろん、不倫は法律上してはいけないことですし、店の営業妨害になるような動画の投稿は刑事罰につながることもあります。また、CMなどで特定の人たちを差別するような表現を用いることも問題でしょう。
しかし、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまうというのは、「許せない」が暴走してしまっている状態です。
我々は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っています。
人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。
他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。
こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。この認知構造は、依存症とほとんど同じだからです。
有名人の不倫スキャンダルが報じられるたびに、「そんなことをするなんて許せない」と叩きまくり、不適切な動画が投稿されると、対象者が一般人であっても、本人やその家族の個人情報までインターネット上にさらしてしまう、企業の広告が気に入らないと、その商品とは関係のないところまで粗探しをして、あげつらう……。
「間違ったことが許せない」
「間違っている人を、徹底的に罰しなければならない」
「私は正しく、相手が間違っているのだから、どんなひどい言葉をぶつけても構わない」
このような思考パターンがひとたび生じると止められなくなる状態は、怖ろしいです。本来備わっているはずの冷静さ、自制心、思いやり、共感性などは消し飛んでしまい、普段のその人からは考えられないような、攻撃的な人格に変化してしまうからです。
特に対象者が、例えば不倫スキャンダルのような「わかりやすい失態」をさらしている場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、正義を振りかざす格好の機会となります。
あなたも「正義中毒」に陥ってしまう可能性がある
こうした炎上騒ぎを醒めた目で見ている方も多いと思います。しかし、正義中毒が脳に備わっている仕組みである以上、誰しもが陥ってしまう可能性があるのです。もちろん、私自身も同様に、気を付ける必要があると思っています。
また、自分自身はそうならなくても、正義中毒者たちのターゲットになってしまうこともあり得ます。何気なくSNSに載せた写真が見ず知らずの他人からケチをつけられ、「不謹慎だ」「間違っている」などと叩かれてしまうようなケースは、典型例だと言えます。
正義中毒の状態になると、自分と異なるものをすべて悪と考えてしまうのです。自分とは違う考えを持つ人、理解できない言動をする人に「バカなやつ」というレッテルを貼り、どう攻撃するか、相手に最大級のダメージを与えるためには、どんな言葉をぶつければよいかばかりに腐心するようになってしまいます。
ある状況においてどちらの言い分が正しいのかはさておき、双方が互いを正義と確信して攻撃を始めてしまったら、解決の糸口を見出すことは非常に困難です。
それどころか、参加している双方が、お互いを攻撃し合う状況にのめり込んでいくこと自体をイベントとして積極的に楽しんでいて、そもそも解決しようという気がないのではないかとも思えます。それはまるで、どう上手に、効率的に相手をけなすかの技術を競ういわば大喜利大会のようです。
これは、前述した正義中毒の「重篤な」状態だと言えるでしょう。
問題を解決しよう、既存の知識と経験だけに頼らず新しい知見を得よう、難しい状況を抜け出して新たな答えを見出そうとするよりも、その場で自らの正義に酔い、相手を一方的にけなすことに満足感を覚えているわけです。