「妻がいなくなったんです」 相談窓口に舞い込んだ新たな事件/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』②
公開日:2020/3/30
香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。
秋穂や市瀬が執務するスペースと相談窓口とは同じフロアにある。移動には二、三分もあれば十分である。すっかり昼食を待ちかねている様子の事務官と交代し、しばらく列に並ばされ待たされていたらしい相談者を窓口へと呼んだ。
秋穂の前へやってきたのは、三十代前半と思しき男性だった。丸首のシャツにやや厚手のジャケットを羽織り、ワンショルダーのリュックを背中から下ろして手に持っている。服装にも持ち物にも浮かれたところがなく、旅行者というよりはビジネスマンに見える。それにしては、耳が見えるほどに短く切られている髪はラフなままだ。休暇中の駐在員というところか、と見当をつけながらも、秋穂には彼の顔色の悪さが気になった。
「今日はどうなさいました?」
無愛想と思われない程度にやわらかな表情を浮かべ、秋穂は男性と向かい合った。やれ掏摸だ、強盗だ、とどんな物騒なことを言われても動じるものか、と腹と脚とにしっかり力を込める。
「妻がいなくなったんです」
男性は強く眉根を寄せ、口早に言った。声は低く、聞き取りづらい。
え、と秋穂は思わず訊き返してしまう。
「ですから、妻が行方不明になった、と」
「えっと……」
いま、秋穂と男性は総領事館の一般相談窓口のひとつでカウンターを挟み、立ったまま向かい合っている。右隣では旅券を失くしたと思しき若い女性が、左隣では掏摸の被害に遭ったらしい中年男性が、それぞれ自分がいかに不注意だったかを棚に上げて、同僚らに自身の尻拭いを迫っているところだった。
受付を待っている人々も多く、あたりはかなり騒々しい。大事な家族が失踪した、などという不穏な話を聞くのにふさわしい環境とは言えそうになかった。
「私は笹森道哉といいます。妻は蓮子といって……」
「ま、待ってください」
「いなくなったのは……」
性急に名乗った彼はいまにも崩れ落ちそうなほど弱りきった様子とは裏腹に、己だけではどうにもできない状況に打つべき手もなく追い詰められ、最後にとうとうだれかに縋りつくことを決めた者だけが見せる、異様に力強い眼差しで秋穂を射貫く。
「お話はきちんとお伺いいたします」
秋穂は笹森がそれ以上しゃべらないよう、仕草で示しながら言った。見捨てるつもりなどない。だが、場所は変えたい。
「ただいま別室にご案内いたしますので、少しお待ちいただけますか」
口調が変わらないよう心がけつつ、秋穂は首を伸ばして応接室の空きを確認する。
カウンターにしがみつくようにして立っていた笹森を誘導し、同じフロアにある、倉庫と見紛うほどに簡素な小部屋の扉を開けた。窓のひとつもない窮屈な空間だが、ここなら多少は落ち着いて話を聞くことができる。
「笹森さん」
味気ない事務机を挟んで笹森と相対した秋穂は、努めて冷静な声を出した。勧められるままに着席した笹森の手が細かく震えていることに気づく。
「詳しいお話をお願いできますか」
鴻上参事官をすぐに呼んだほうがいいだろうか、と秋穂は考えた。
笹森の妻の失踪が事実であった場合、正式な外交ルートを通じて香港の警務当局に捜査を要請しなくてはならない。その折に必要とされるさまざまな判断は、秋穂が与えられている権限を大きく逸脱している。
だが笹森には、秋穂の逡巡を気に留める余裕などないようだった。最初につかんだ藁の先っぽを手放す気はない、とばかりに、やや苛立った態度であらためて名乗った。そして、妻は、蓮子は、と矢継ぎ早に先を続けようとする。
どうにも切羽詰まったその様子に、秋穂はこの場に上司を呼ぶことを諦めた。あとできちんと説明すればいいだろう。鴻上さんは話の通じない人じゃない。そう結論づけてひとりで話を聞くことにした。
ときどき言葉を詰まらせながら、震える声で笹森が語った彼の妻の失踪当時の状況は、にわかには理解しがたいものであった。
笹森道哉はまず自身の身分を明らかにした。日系大手総合商社に勤める三十二歳のビジネスマンであり、駐在は三年になる。英語と広東語に堪能で、この街における意思疎通に不自由はない。妻の蓮子は六歳年下、結婚して四年になるという。
しかし、笹森がこの街で妻とともに暮らすようになったのはわずか二か月ほど前からのことだった。挙式から一年もしないうちに辞令が出たんです、と彼は苦い表情を見せた。
「私がこの先もしばらくは日本に戻れないことがわかって、妻はモデルの仕事を辞めてこちらへ来てくれました」
笹森は項垂れた。秋穂が静かに先をうながすと、彼は思い出すのも厭わしいという表情を浮かべながら話を続けた。
蓮子がいなくなったのは五日前の週末の夜のことだという。
ひどい雨が降っていた。慣れない外国暮らしにもかかわらず、甲斐甲斐しく自分を支えてくれる妻を少しでも喜ばせてやりたくて、笹森は彼女を食事へ連れていくことにした。邦人に人気の高い有名ホテルの高層階にある四川料理の店である。悪天候ゆえに景色こそ堪能できずに終わったが、日頃にはない贅沢な味わいにおおいに満足して、ふたりはホテルを出ようとした。
ずいぶん降ってるね、帰ったらこのあいだ言ってた映画のDVDでも観ようか、とエントランスの庇の下でそんな話をしていると、ベルスタッフが寄ってきて、車を呼ぶか、と尋ねてきた。自宅までは路線バスに乗ってもすぐだったが、こんな日だから、と笹森はタクシーを手配してもらうことにした。
いつもならば車寄せに高級キャブがずらりと並んでいるようなホテルだったが、そのときばかりは雨のせいか時間帯のせいか、車は一台もいなかった。来たら知らせに行くからロビーで待っていろ、とスタッフに言われ、ふたりはいったん引き返すことにした。
「そのとき、私だけが呼び止められたんです」
笹森は悔しげな口調で言う。
「だれに?」
「そのベルマンです。見たこともない万年筆を私に示して、これはあなたのものか、と訊いてきました。違う、と答えると、さっきまでこんなものはなかった、たったいま落ちたような音がしたんだからあなたのものに違いない、としつこく言うのです。重ねて否定して彼はようやく引き下がりました」
それで、と笹森は苦しげな表情を浮かべる。
「振り返ったら妻がいなくなっていたんです」
秋穂の眉がひそめられる。
「いなくなっていた、とは?」
「消えていました。忽然と。すぐにロビーやホテルの周辺を捜してまわりました」
妻の傘は私が持っていました、と笹森は言った。
「土砂降りのなか、身ひとつで街中をうろうろしているとは思えませんでしたが……」
「周りの人たちには尋ねなかったのですか?」
もちろん訊きました、と笹森は答えた。妻を見かけなかったかと誰彼かまわず問い詰めたが、だれもが口をそろえて、見ていない、と首を横に振ったのだという。
「携帯電話を持たせていたので、それも鳴らし続けましたが、一度も繋がらなかった」
「そんな莫迦な……」
「莫迦な話です。でも、事実なんです!」
笹森が怒りに満ちた口調で言うので、秋穂は小さく頭を下げる。あなたの話を疑ったわけではない、という意味で、いえそんなつもりは、と囁くような声で言い添えた。
「私にだって理解できない。多少しつこくはありましたが、ベルマンとのやりとりは時間にすればごく短いものでした。二分もかかっていなかったと思います」
笹森がベルスタッフに話しかけられたとき、彼の妻はロビーに向かって歩き出していた。夫が呼び止められたので、彼女もともに足を止めたのだという。彼らは互いに数メートルも離れていないところに立っていたはずだった。
ですから、と笹森は続けた。
「振り返って妻がいなかったとき、てっきり先にロビーに入ったものだと思った。それなのに彼女の姿がどこにも見当たらなかったので、もう一度車寄せに出て、そのベルマンを捜しました。彼なら妻の姿を見ていたはずですから。ですが、彼はいくら捜してもそこにはいなかった」