謎の屋敷に呼び出された女医…待ち受けていたのは禍々しいまでに美しい男/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』⑤
公開日:2020/4/2
香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。
ポケットのなかで携帯電話が振動して、張梨玲は白衣の肩を震わせた。
勤務中は所持を禁止されている私用の携帯電話を肌身離さず持ち歩いていることを知られたくはなかったし、なによりもかけてきた相手との会話をだれかに聞かれでもしたら身の破滅だ。
看護師たちの敏い視線を避けて薬品庫に入り、内鍵をかけた。灯りをつけないまま、携帯電話のディスプレイを見つめる。番号は非通知で、登録名はない。それでも梨玲には電話をかけてきている相手がだれであるかということも、どんなにまずい状況でもその連絡を無視するわけにはいかないということもわかっていた。
「……はい」
不必要なまでに低く潜めた声で応えると、電話の向こうの男、李海藍は硬い口調で、これからすぐに往診を頼む、と言った。
「……無理よ」
「無理?」
「夜勤中なのよ」
知るかそんなこと、と海藍は切り捨ててくる。
「すぐにって言ったらすぐにだ。わかるよな、先生」
わからない。わかりたくもない。けれど、そうは言えなかった。
「……場所は?」
諦めを含ませた声で短く尋ねると、メッセージを送る、という返事とともに電話はすぐに切れた。こちらの状況も感情もおかまいなしだ。
梨玲は大きなため息をついて、片手で短い髪をぐしゃぐしゃに掻きまわした。今夜は当直なのだ。病院を抜け出すには、第二当直である徐小福を仮眠から叩き起こさなくてはならない。ここのところ急な交代を頼むことが続いているから厭な顔をされるだろう。いくら彼がおとなしい性質であるとはいえ、上司には黙っていてくれ、という無理を聞いてもらうのもそろそろ難しくなってくるかもしれない。
考えただけで憂鬱になるが、この呼出しを拒否するわけにはいかなかった。
いったいいつまでこんなことが続くんだろう。
梨玲は薬品庫の扉に凭れかかり、そのままずるずるとしゃがみこんだ。先のことを考えるとひどい息苦しさを覚える。そこには絶望しかないからだ。どれだけ叫ぼうと、どれだけ嘆こうと、だれも助けてはくれない。
とはいえ、こんなふうに自分の境遇を思うのは、じつは稀なことだ。見えないところにどれほどの暗闇を抱えていようとも、日常は日常としてそこにある。いっそ奇妙なほど、あたりまえのように。だから日頃の彼女にとっての絶望とは、仕事の都合を無視して押しこまれる面倒ごとに対する煩わしさとほとんど同じ意味でしかない。
だが、時折はいまのように現実に打ちひしがれることもある。急がなくちゃ、早くしなくちゃ、そう思うのに身体は思うように動かない。もう一歩たりとも動きたくない。いっそのことこの倉庫に閉じこもってしまいたい。いまの梨玲はだれかの助けよりも、現実を忘れさせてくれるなにかのほうを求めていた。
それから一時間も経たぬうちに、梨玲は維多利亞港を眼下に望む高台の高級住宅地へと車を走らせていた。珍しく摂氏十度を下回るほど冷える夜だというのに、ハンドルを握る手が厭な感じに汗ばんでいる。
メッセージで指示された屋敷に向かうのははじめてのことだった。これまでの呼出しは、市街地にあるホテルの一室か繁華街である九龍の一角にある雑居ビルが多く、顔を合わせるのは必ず電話の相手である李海藍と決まっていた。
その海藍が何者であるのか、そこそこにつきあいの長くなったいまでも梨玲にはよくわかっていない。正体不明である相手の無茶苦茶な指示にも素直に従うのは、それでも彼が裏社会の人間であるということだけははっきりしているからだ。
だが、彼が属しているはずの組織のことはなにも知らない。尋ねたところで親切に教えてくれるわけもないだろうし、梨玲は彼以外の組織のだれかと口をきいたこともなかったので、その必要がなかったともいえる。自分を取りこんだ闇の正体を知らずにいるのは不安ではあったが、知らずにいることがどこか逃げ場になっているのも事実だった。
そういえば、と梨玲はふと胸騒ぎを覚えた。今日のあいつは普段と少し様子が違ったような気がする。
李海藍はいつもどこかにやけたような口調で話す男だ。電話越しでも相対しても、鼻先で小莫迦にされているようで、不愉快に感じるのが常だった。
でも、さっきはそうじゃなかった。硬い声には慌てているような響きがあった。
胸騒ぎは悪い予感に変わる。黒道の男があたしなんかに焦りを悟らせるなんて、なにかとんでもないことに巻きこまれようとしてるんじゃないの?
やがて梨玲は指示されたとおりの住所に到着した。香港では非常に珍しい戸建ての大きな屋敷の前で、彼女は車のなかからあたりの様子を窺った。付近に人の気配はない。逃げ帰りたい気持ちをどうにか抑えこみ、車中に必ず準備しておくようにしている往診用の大きな鞄を持つ。
路上に停めた車から降りた途端、身体が震えた。寒さのせいばかりではないだろう。
だれに咎められたわけでもないのに足音を忍ばせ、通用門の呼び鈴を鳴らした。存外に大きな音が響いて、梨玲の緊張はいやがうえにも高まっていく。
監視カメラの赤い小さな作動灯に睨まれたまま待っていると、しばらくして内側から静かに門扉が開いた。全体的に白っぽい服を着た、まだ幼いといっても差し支えのない少女が無表情で梨玲を出迎える。
張梨玲だと名乗ると、少女は無言で頷いた。暗い瞳の色のせいか、表情がまるで動かないせいか、彼女は体格から推定される年齢の割に、不自然なほどおとなびて見えた。
少女は忍ぶような歩みで梨玲を屋敷の通用口まで案内する。門扉を開けたときと同じようにそっと扉を開け、ここでもまた無言のうちに屋敷内へと客人を招き入れようとした。
これ以上踏みこみたくない、とばかりに立ちつくしたままでいると、お願いだから素直についてきてくれ、と縋るような眼差しで見上げてくる。このこどもを困らせたところでいまさらなにに逆らえるはずもないというのに、あたしも往生際が悪い。梨玲はため息をついて鞄を持ち直すと、少女のあとに従った。
全体的になんとなく落ち着かない雰囲気の屋敷だった。内装に使われている壁紙や絨毯やカーテン、調度品などはどれもこれも超一流の品であるとひとめでわかる。しかし、その趣味に一貫性は見いだせず、屋敷の主人の好みや個性は窺えない。どうにも継ぎ接ぎの感が否めないのだ。
階段を上って長い廊下をしばらく歩き、突き当たりにある部屋の前で少女が立ち止まる。小さな拳でノックをし、返事を待たずに扉を開けた。うながすような目つきをするので、足を踏み入れる。
そこで思わず息を呑んだ。
梨玲を出迎えたのは、はじめて顔を合わせる、禍々しいまでに美しい男だった。秀でた額、形のよい眉、通った鼻梁にやや薄めの唇がじつに絶妙なバランスで配置されている。透けるような白皙の肌、長めの黒髪の艶やかさはまるで稚い少女のようだ。深い紺青の瞳だけが、たいそうな美貌を裏切るように冷たく荒んで彼の出自を物語る。
黒いスーツに黒いタイ、こんな夜更けにもかかわらず余計な皺ひとつない白いシャツ。ジャケットの胸には清潔そうな白いチーフ。いっそ無個性と言ってもいい装いに包まれている体躯はしっかりと鍛えられているようだ。立ち姿にいっさい隙がない。
「張梨玲ですね」
黒道が招く人外魔境にふさわしい化物が出てきたわね、とばかりに顔をしかめる梨玲を嘲笑うような響きをもって、男は乾いた声で彼女の名を呼んだ。言葉遣いは丁寧だが、口調にはまるで丁重さがない。こちらが頷くのを待つ素振りも見せず、彼は無造作に奥の部屋に続く扉を開けた。