冷酷なマフィアの男が連れてきたのは衰弱した女性。身体には悲惨な跡が…/『香港シェヘラザード 上・蕾の義』⑥
公開日:2020/4/3
香港に赴任中の新人外交官の秋穂のもとに舞い込んだ、女性の拉致誘拐事件。事件を追う秋穂は、香港の黒道の男に手を引けと脅されるが――!? 正道の女と外道の男、それぞれの「正義」が交錯するラブ・サスペンス。
室内は薄暗かった。天蓋付きの寝台の傍らの灯りだけが、その周りのごく狭い範囲をぼんやりと照らしている。
どうしていいかわからず、梨玲は隣に立つ男の顔色を窺った。彼は柳眉をかすかに吊り上げ、そのまま進むよう圧力をかけてくる。無意識のうちに喉を鳴らして、おずおずと歩みを進めた。
寝台の縁にひとりの男が腰を下ろしている。長い髪が、衣服を纏わないしなやかで逞しい上半身に落ちかかっている。こんなときでなければ思わず見惚れたかもしれない、素晴らしい肉体美だ。だが、梨玲の目はそのときすでに、その同じ寝台に横たわるひとりの女性に据えられていた。あれがあたしの患者、と彼女は急に落ち着きを取り戻した。
梨玲の姿を認め、男が立ち上がった。ぬめる蛇のような眼差しに背中がひやりとする。
「医生か」
ええ、と梨玲は頷いた。
やわらかい素材の下衣だけを身に纏ったいかがわしい格好で、男は梨玲に歩み寄る。足許は裸足だ。首を振って、寝台の女性に近寄るように合図を寄越してきた。
「少し前に気を失って、意識が戻らない」
「少しって……どれくらい?」
「さあ、二、三時間じゃないか」
なんという無関心か。強い嫌悪感を覚えるが、それを素直に表していい場面でないことは厭でも察せられる。痛みを感じるほどに固く拳を握った。表情を動かさないようにするには、それほどの努力が必要だった。
呼吸を整えてから、鞄から聴診器と血圧計、懐中電灯を取り出して寝台に歩み寄る。頼りない灯りのもとでさえ、女性の顔がひどく青ざめていることがわかった。ほっそりした手を取ると、それはひどく冷たく、まったくと言っていいほど力がない。
「……冷えてるわね」
「水をかけたからな」
いまのいままですっかり怯えていたことも忘れ、梨玲は思わず男を強く睨みつけた。意識のないだれかに水を浴びせかけるなどという非人間的な真似がよくできたものだ。
男は悪びれもせず、そうすれば意識が戻るかと思って、とつまらなそうに言う。腹の底が冷たくなったが、なにかを言い返す気にはなれなかった。
梨玲は女性を見下ろした。まるく綺麗なカーブを描く額から続く薄い目蓋は閉じられている。どこか優美で穏やかな雰囲気に、彼女は外国人かもしれない、とふと思う。
「……日本人?」
「余計なことはいい」
獣の唸り声にも似た男の声が飛んできて、梨玲は首をすくめた。美しいと言えなくもないが、人として大切なあたたかみを欠いた耳障りな声だ。
梨玲は寝台の上に片膝をついて屈みこみ、まずは手首を取って脈診からはじめた。彼女は外科医だが、その思考の基本には東洋の知識が根付いている。指先に触れる脈は弱く、ゆっくりとしていた。かなり衰弱している、と梨玲は眉をひそめる。自分の顔が男に見えていないことが幸いだと思った。
上掛けをそっと外して、思わず息を呑んだ。
ごく軽い羽毛布団の下の華奢な身体には、下着ひとつつけられていなかった。そのやわらかそうな皮膚の表面は、鬱血や細かな傷で埋め尽くされている。二の腕や腰の周りにとくに強く残る指の跡を見れば、長時間にわたる凌辱を受けていたことは一目瞭然だった。
なんてひどい、と梨玲は眉根をきつく寄せる。それから、自分を励ますようにぐっと強く目蓋を閉じた。
ひと呼吸ののち目を開けると、己の本分に縋るかのように聴診器を手に取った。女性の胸にそっとあて、心音を聴く。脈診からも知れるように、その音はいまにも途絶えてしまいそうなほど弱々しい。梨玲は急いで上掛けを彼女の身体にかけてやった。
続いて、額に手をあて、下目蓋を押してそっとめくった。低体温に貧血。血圧を測ると、予想どおりにかなり低かった。本来はすべらかでみずみずしいはずの肌からは艶も潤いも失せ、唇もひどく荒れて血がにじんでいる。
心と身体の限界を超えていたぶられたのだろう。あまりの痛ましさに、梨玲は憐れみを通り越して憤りさえ感じた。
「どうだ?」
そう尋ねる男の声にはほとんど温度がなかった。お気に入りの玩具が壊れた程度にすら感じていないかのようなその態度に、梨玲はまたもや拳を握りしめる。人の命を、尊厳を、いったいなんだと思っているのだ。
「どうって……」
知らず非難のこもった口調になった。梨玲は男を振り返る。
「死にそうか?」
冷たい眼差しに身体が震える。だが、いまや唯一の矜持となってしまった医師としての義務感が梨玲を奮い立たせた。どんな状況であれ、目の前で病み、傷ついただれかを見捨てることはできない。
「この人にいったいなにをしたんです?」
男が軽く目を見開いた。そんなことを問われるとは思っていなかったのかもしれない。
なにって、と呟き、あらためてひどく不愉快な笑みをその整った顔ににじませた。人の苦しみや嘆きを己の歓びとする者が浮かべる、陰惨な嗤い方だ。
「わからないのか?」
梨玲は深く息をついた。悪魔の愉悦の表情など目にしたくなかった。
「いつから?」
いつだったかな、と男は首を傾げた。三日、いや五日だったか、よくわからん、となんでもないことのように続けた頑是ないとさえいえる口調に、梨玲は心底ぞっとさせられる。
「食事は?」
鋭い口調で重ねて問う。義務感だか怒りだかわからないなにかが、恐怖を凌駕している。
「さあ」
「さあ、って……」
「与えてはいるが、口にしたかどうかは知らん。そんなことに興味はない」
男は唇を歪めて答えた。
「栄養失調と極度の疲労、低体温。放置すれば、命の保証はありません」
「わかってる。だから医生を呼んだんだ。なんとかしろ」
「なんとか……って」
「そいつはおれのもんだ。死なれちゃ困るんだよ」
男の笑みに梨玲は震えた。忘れかけていた恐怖が、先ほどよりも深い場所までその触手を伸ばしてくる。腹の底を冷やす怯えが、いつ医師としての矜持を超えるのか、時間の問題であるような気がしてきた。