「あなたも悪いのよ」――少女を絶望させた痴漢行為、そして母の言葉。痴漢被害者の目線で語られる実体験の重み

社会

公開日:2020/3/27

『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』(佐々木くみ、エマニュエル・アルノー/イースト・プレス)

いつか痴漢のいない世界が来ることを信じて。

 この言葉で締めくくられた『少女だった私に起きた、電車のなかでのすべてについて』(佐々木くみ、エマニュエル・アルノー/イースト・プレス)を読み終えた時、胸がえぐれるようだった。こんなに痛くて、つらい余韻を残す小説はなかなかない。

 本書は12歳の少女、クミが6年にわたり山手線の電車で痴漢を受けた事実を、フランス人作家がありのままに“小説化”したものである。クミは中高一貫の女子校に通うため、毎朝ラッシュアワーの山手線の電車に乗らなければいけない。

 怖くて、動くことができなかった。体が硬直し、恐怖の感情とか触れられている感触とか、一瞬、石のように何も感じなくなったような気がした。が、悪夢は続いていた。(中略)親指はほんの少しずつ首のほうへ上がってきた。理解不能なこの男性は、これ以上いったい何をしようというのか。(pp.28~29)

 被害者の視点で語られる、おぞましい痴漢行為の数々。男の指がクミの体に直接触れようと襟やスカート、パンツの中に入り込む。電車を降りてからもついてきて、「君の中で出したいんだ!」と卑猥な言葉を浴びせる痴漢まで――。引用がためらわれるほど、それらの描写は生々しく、不快感に満ちている。

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 小説という形式ではあるが、クミが受けた痴漢行為はすべて事実だ。巻頭の「はじめに」では一切の誇張や虚偽はない、と明示されている。本書はフランスで刊行されるとたちまち話題となり、ついに日本でも邦訳版が発売された。

 12歳の少女が受けた痴漢と聞いて、多くの人は「近くの大人に相談すればいいのに…」と思うだろう。実際にクミは初めて痴漢を認識した時に、母親や担任教師にその事実を打ち明けている。

 しかしクミの母親は「あなたも悪い」と彼女を叱りつけた。きっと男性を惹きつける態度をしていたのだと。また母親は痴漢をスカートの上から一瞬、軽くなでるくらいの行為にしか思っていなかったのだ。

 こんな目に遭わないように、自分が気をつけていなければならない。自分が悪いせいで被害に遭っても、母からは怒られるだけだ。嫌な目に遭ったうえに大好きな母から怒られるなんて、なんてつらいんだろう。(p.47)

 こうしてクミにとって、痴漢は避けられない日常と化していく。しかし決して受け入れられるものではない。クミは自殺を考えた。それがとても自然なことに思えてくるから、余計に虚しく、とてもつらい。

 唯一の救いは、大人になった“現実のクミ”は痴漢のある日本を離れ、フランスに住んでいることだ。「痴漢でつらい思いをする人が減るように」「すべての親に読んでほしい」という思いを込めて、この本は生まれたのである。

 日本では残念ながら、未だに痴漢は珍しいことではない。しかしその実態についてはあまり知られていない、と本書を読んで改めて思う。

 痴漢は体のどこかに傷が残ることも少なく、「それほど大騒ぎすること?」という感覚に近い人も多いかもしれない。たしかに「冤罪」という問題もある。

 かつて私も、混んだ駅のホームで痴漢をしたらしい男性を目撃したことがあった。

「この人、痴漢です!」金切り声のする方に目を向けると、片手を女性に掴まれた男性が必死に改札に向かおうとしていた。男性を全身で引き留めようとしながら、女性が痴漢被害を訴えて泣き叫んでいる。その時、男性がうんざりしたように放った「勘弁してくれよ…」という一言は、今でもはっきりと覚えている。

 あの時、私は「自業自得」「でも勘違いだったら…」と男性のことばかりを考えていた。しかし本書を読み終えた今、考えるのは「この人、痴漢です!」と声を上げた女性のことだ。

 痴漢は性犯罪であり、けっして“よくあること”でも“仕方のないこと”で済まされていいものでもない。おぞましい日常に苦しんだ少女は痴漢のない世界に行きたくて、安全で平和といわれる日本を“脱出”していった。

 日本に住んでいるのなら、痴漢はけっして他人事ではないのだ。痴漢のおぞましさがよく分かる本書を、できるだけ多くの人に手に取ってもらいたいと切に願う。

文=ひがしあや