ドイツと日本の不思議な違いは「学校」にあった!? 休校を体験した今考えたい教育現場の意味
公開日:2020/4/1
学校が休校で部活も停止になったとのことで、中学1年の娘が家に居る。私は朝から仕事なので、その間は完全放置だ。夕方仕事が終わって戻ると、彼女は悪びれもせず、お菓子を片手に無邪気にゲームを進めながら「あ、おかえりー」という。勉強をしないどころか、家事も手伝わない。この馬鹿娘! …といらだちが。そして、自分のしつけの甘さを棚に上げ、「学校がオンラインで授業をしてくれたら」「LINEで先生が毎日課題を出してくれたら」と心の中でぐちる日々…。当て所もなくもやもやしているうちに、「そもそも学校って何だろう?」という疑問がわいてきた。
そこで開いてみたのが、『こんなに違う!? ドイツと日本の学校』(和辻龍/産業能率大学出版部)。中高一貫校の数学教師である著者が、ドイツのギムナジウム(日本だと小5から高3に該当)に“生徒として”通った体験記だ。どちらの国が優れているという批判はなく、学校はもっと自由であっていい! と明るくまっすぐな驚きに満ちた筆の運び。読むと不思議と元気になる。なぜドイツ? という質問はさておき、子どもや学校に関わる方以外にも、学校に通ったことのあるすべての方に紹介したい。
ないないづくしのドイツの学校。学校行事、校則、宿題がない
まずは、日本と大きく違う点を紹介。日本の学校は、ただ勉強を教えるだけでなく、生徒の人間性を育てるという目標をもっている。そのため、協調性や団結力を育む一環でたくさんの行事がある。しかし、ドイツの学校には文化祭も体育祭も修学旅行もない。なぜなら、学校は授業を受ける所だから。それ以外の要素は、学校に求められていないのだ。
ドイツの「学校は授業を行う所」という定義は、びっくりするくらい徹底されている。だから、朝夕のホームルームもない。先生も生徒も、朝の登校は時間ぎりぎりで、学校に着くといきなり1時間目が始まる。授業は、宿題がない(どころか、先生が宿題を出してはいけない)のでやってきたかどうかの確認もなく、いきなり授業の本題に突入する。生徒たちは、校則も制服もないせいか、極めてラフな態度だ。
そしてなんと、授業中でも飲食OKだ。バナナをもぐもぐしながらノートを取っている生徒がいる。あちらの机には、チョコが、野菜スティックが、パンが…。これは、ドイツが国民全体に自由の原則を徹底しているという証。食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む。無理に我慢はしないのだ。勉強を教える所である学校には、生徒個人の欲求を否定する権利はない。
落ちこぼれを出さないために、あえて留年させる
日本において「留年」という言葉はとてもネガティブに響く。あらゆる手を尽くして留年をさせないようにもしている。しかし、ドイツでは、普通に「留年」があるそうだ。
これは、社会に入ったときに落ちこぼれないようにという国の方針のためだ。社会の中で不利な立場にならないために、学校できちんと学問的知識を得てから進級・卒業する。これは、日本人から見ると厳しいようだが、実はこの方式の方が本当のやさしさなのではないかと考えさせられる。
ここまでの紹介のみだと、「ドイツは自由でいいな」と思われるかもしれないが、それは人によるだろう。例えば、日本の学校なら、生徒がちょっと気を利かせて教室のゴミを拾うと「えらいね」となる。しかし、ドイツでは、生徒たちは堂々と「それは、掃除業者(ドイツの学校は生徒に掃除はさせない)の仕事だから」とのたまうそうだ。
ドイツ社会は、個人の自由と権利が明確である分、会社や学校との関係は徹底的な契約によって結ばれる。だから、たかがゴミといえど、他人の仕事を奪ってはいけないという考え方をするのだ。
学校に求めるものが少ないドイツ社会。この前提には、ドイツの大人が、個人として自立した存在なので(この自立は経済的というよりも“個が独立”していてすべてにおいて対等であるという意味)、学校に子どもの教育のすべてをやってもらうとは考えていないということがある。
その一方日本は、子どもを学校のルールや社会体制のレールに乗せるのが義務だとする節があるが、そうではないのかもしれない。もっと個々で判断していいに違いない。「学校は勉強を教える所」というシンプルさは、日本の学校と教育、そして大人も子どもももっと自由にしてくれる。そんな気がする。
文=奥みんす