日本初の爆死!? 信長を裏切って許された男の最期【松永久秀】/『残念な死に方事典』①

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/18

猛将と讃えられた男でも、最後はあっけなかった! 鎌倉時代~幕末までに登場する武士の死に方を、コミカルなイラストとともに辿ります。歴史的人物の最期を通じて日本史はもちろん、生き方も学べる1冊です。

『残念な死に方事典』(小和田哲男:監修/ワニブックス)

織豊時代
信長に逆らい日本で最初に爆死した男

松永久秀

死に方:爆死

享年68(1510年~1577年)

PROFILE
将軍・足利義輝の暗殺や織田信長に対する二度の裏切りなど、悪行のかぎりを尽くした戦国武将。茶器集めや連歌を趣味とした教養人としての一面もあった。

戦国時代きっての梟雄同士の奇妙な絆

「ワシは日ノ本一の正直者ゆえ、義理や人情という嘘はつきませぬわ。弱いから裏切られる。ただそれだけでござる。裏切られたくなければ、つねに強くあればよろしいだけじゃ」

 天下人・信長を裏切っておきながら、ぬけぬけと松永久秀はそう言い切った。

 まわりに控える織田家の重臣たちは肝を潰す思いで、大将の信長と久秀のやりとりを見つめていた。今にも憤激に任せて、信長が刀を抜くのは必至の展開だったからだ。

 ところが、だ。

「ふっ。おもしろいことを言うのう。よし、今回ばかりはおぬしの裏切りを許そう」

 元亀三年(※1)。久秀による一度目の謀反の事後。信長はあっさりと狡猾な老将を許した。

 それだけで信長の久秀に対する特別な態度が思い知れるが、後日、久秀が徳川家康と初めて会った時、信長が次のように紹介したことで、二人の関係性はさらに明らかとなる。

「家康殿、この老人は普通の人間ならまずできぬ信じ難い悪事を三つもしてのけたのじゃ」

 信長が指す悪事とは、主君の三好家に反旗を翻したこと、将軍である足利義輝を殺害したこと、東大寺大仏殿を焼き払ったことだ。

 信長もまた主君から実権を奪い、将軍の義昭を追放し、比叡山焼き討ちを果たしていた。

 情け知らずの残忍で無慈悲な『梟雄(※2)』という括りでは、まさに二人の武将は同類であり、信長は久秀に対して、言葉にせずとも己と同じ血を感じていた。

 また久秀は信長と同様に名物茶道具の収集家として有名で、初対面の時には秘蔵の『九十九髪茄子の茶入』を贈答している。一度目の謀反を許された際にも、岐阜城を訪れて、数々の名物茶道具を献上し、信長を大いに喜ばせた。

 久秀にとっても、はるかに年下の信長はどこか憎み切れない、自分と同類の梟雄だと意識する部分があり、趣味や心が通じ合うことをわかっていた。

天下の名器と共に散った謀反人生の最期

 しかし一度目の謀反から五年後。打倒信長を掲げ、上杉軍が京都へ向けて進軍を開始すると、久秀はあっさりと二度目の謀反に打って出る。これが早計に失した。上杉軍は織田軍を手取川で撃破したあと、越後へと引き返してしまったのだ。信貫山城に立てこもって態勢を立て直そうとするが、圧倒的な信長の兵力に敵うわけもなく、八方塞がりに陥る久秀。織田家家臣を驚かせたのは、信長がここでも久秀に寛容な態度で応じたからだ。

「ワシが喉から手が出るほど求める、天下の名物茶器『古天明平蜘蛛の釜』さえ差し出せば、命だけは助けてやろう。そのように言い伝えてまいれ」

 嫡男の信忠にそう告げて、なおも久秀を助命しようとする信長。

 だが、今度ばかりは久秀は従わず、固辞する。間もなく織田軍の総攻撃がはじまった。なにを思ったか久秀は天守へ登り、まるで信長に見せつけるように平蜘蛛の釜を叩き割ると(※3)、爆薬に点火して凄絶な爆死(※4)を遂げた。死する寸前、久秀は喚き叫んだ。

「この平蜘蛛の釜と俺の首の二つは、やわか信長に見させるものかっ!」と。

※1 西暦1572年
※2 残忍で勇猛な人物
※3 釜に火薬を詰めて爆死したともいう
※4 爆死は後代の創作で、久秀の死因は焼死、もしくは切腹が正しいとされる

<第2回に続く>