湯治中に、つるっと足を滑らせて!? 織田家臣団を率いた男の転落人生…【佐久間信盛】/『残念な死に方事典』⑤

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/22

猛将と讃えられた男でも、最後はあっけなかった! 鎌倉時代~幕末までに登場する武士の死に方を、コミカルなイラストとともに辿ります。歴史的人物の最期を通じて日本史はもちろん、生き方も学べる1冊です。

『残念な死に方事典』(小和田哲男:監修/ワニブックス)

織豊時代
信長と生き、信長に生を奪われた宿老

佐久間信盛

死に方:転落死

享年54(1528年~1581年)

PROFILE
平手政秀の死後より、織田信長の織田家臣団を長年率いた筆頭家老。数々の戦いで戦功を重ねるも信長と不和になり、追放された。

十九ヶ条の折檻状で高野山追放の憂き目に

『お主ら親子は五年もかけてなんの功績も挙げておらん。どういうことだ?』

『相手が坊主だから勝敗の機を見極めようともせず、だらだらしておったのか?』

『明智光秀も羽柴秀吉も池田恒興も頑張っておるのに、なぜ奮起しようとしない?』

『柴田勝家もワシのために手柄を立てようと必死で戦って、加賀を平定しておるのだぞ』

 つらつらと書き連ねられた折檻の書状の一ヶ条また一ヶ条を読みながら、佐久間信盛は自らの全身がぶるぶると震えていくのがわかった。

 事の発端は、主君の織田信長から石山本願寺攻略の総指揮を任されたことだった。

「たかが寺だ、簡単に攻め落とせる」と高を括っていたら、鉄砲を使った怖ろしいほどの徹底抗戦で迎撃され、思いのほか手こずってしまった。

 ともあれ、攻め落としまで丸四年以上というのは、さすがにまずかった――。

 信盛はしてもしょうがない後悔に胸を痛めつつ、十九ヶ条目の折檻の文面に目を這わせ、そして慄くのだった。

『役立たずのお主ら親子ともども、頭を丸めて、高野山にでも隠遁し、連々と赦しを乞うのが当然であろうが』

「ひぃぃぃいいいぃぃぃ――」

 無慈悲なまでの最後の一文を読み終わり、思わず悲鳴を上げる信盛に、

「いかがなされましたか、お父上?」

 息子の信栄(※1)が心配そうに訊ねる。

 天正八年(※2)三月十二日、信盛と信栄の親子は、信長の重臣でありながらも高野山追放の憂き目に遭う。三十年にわたって仕えてきた信長の性格は誰よりも知り尽くしているつもりだった。どういうつもりで折檻の書状を寄越したのか、信盛はすでにわかっていた。

凋落の果ては崖から転落死

 かつては信長の信頼も厚く、桶狭間の戦いをはじめ、主だった戦をともにしてきた。一時は筆頭家老として織田家から重宝されたほどだ。それがこんなことになろうとは――。

 信盛は悔いながらも、心のどこかで放免されることを望んでいた。

 しかし本願寺の失敗を信長はけっして赦そうとしなかった。

 そればかりか追い打ちをかけるように、高野山からも退去するよう信盛親子に命じる。

 追放された翌年の七月二十四日のことだ。

 熊野(※3)の奥まで流浪した信盛は、体調を悪くし湯治をしていた。

「さて、湯に浸かって体を休ませるかのう。あっ――」

 濡れた岩に足を滑らせたかと思うと、その後はあっけなかった。弱っていた体が崩れるように倒れ、そのまま崖から転落死してしまった。流説では、病死あるいは賊に殺害されたともいわれているが、主君信長に捧げた生涯は、信長によって幕を閉じられる。

 信盛の没年は、信長が暗殺された本能寺の変の一年前であった。

※1 信栄は父・信盛の死後に赦免され、信長の嫡男である信忠に仕えた。豊臣秀吉や徳川秀忠にも召し抱えられ、76歳まで生きた
※2 西暦1580年
※3 現在の奈良県

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