曹操に始まり孔明に終わる。2人の英雄を中心に物語を描いた吉川『三国志』/三国志-研究家の知られざる狂熱-③
公開日:2020/4/27
「劉備が諸葛亮に遺した遺言が、しっくりこない!」。三国志の研究家は、何を「問題」と考え、何を「研究」しているのか? 120以上の論文を書き上げた第一人者が、その知られざる“裏側”と“狂熱”を徹底解説。
2.吉川英治『三国志』
曹操を英雄視
わたしは、横山『三国志』を読み、諸葛亮の悲運に涙しましたが、子どものころから理数系が好きで、高校一年のときには文学部に進もうとは考えていませんでした。ところが高校二年の夏、父の持つ歴史小説を読みあさるなかで、吉川英治の『三国志』に出会ったのです。
感動したのは、やはり諸葛亮の悲運でした。そして、進路を変えることにしたのです。「三国志」の勉強がしたいと思いました。
ただし、当時は、「三国志」の研究者になりたいとは思っていませんでした。「三国志」の研究とは、どのように行うものかを知る術(すべ)がなかったからです。
高校三年になると、大学で「三国志」の勉強をして高校の教師になろうと考えていました。当時、国立大学と私立大学では学費に大きな差があり、国立大学を選択せざるを得ませんでした。始まったばかりの共通一次と呼ばれた試験の二回目を受験しました。そのころは国立大学が独自に一次試験、二次試験を実施していたころの雰囲気がまだ少し残っているところでした。
それは、受験者自身が偏差値に応じて大学を選ぶのではなく、大学ごとの特徴で進路を選択するという慣習です。官僚を目指すなら東京大学、経済を学びたければ一橋大学、高校教員になるのであれば筑波大学(もとの東京教育大学)、マスコミで働くなら早稲田大学、などという考え方です。
わたしが在学していた都立三田高校は、東京教育大学出身の先生方が大半を占めていました。高等師範学校からの流れを汲む筑波大学には、『大漢和辞典』(当時世界最大の漢和辞典)を編纂した諸橋轍次(もろはしてつじ)先生の薫陶が根づいている、と教えられました。
吉川『三国志』の影響を受けたわたしは、「三国志」の勉強をして高校の教師になるために、筑波大学第一学群人文学類に進学しました。
吉川英治の『三国志』は、わたしだけではなく、日本における「三国志」の受容に大きな影響を与えました。「智絶」(智のきわみ)の諸葛亮、「奸絶」(奸のきわみ)の曹操、「義絶」(義のきわみ)の関羽のうち、毛宗崗本『三国志演義』は、関羽を第一に尊重します。これに対して吉川英治は、諸葛亮と曹操という二人の英雄を中心に『三国志』を描きます。
吉川は『三国志』の「篇外余録」に、次のように述べています。
劇的には、劉備、張飛、関羽の桃園義盟(とうえんぎめい)を以て、三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国志的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、曹操がその、主動的役割をもっている。
しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明(こうめい)の姿が現われると、彼の存在もたちまちにして、その主役的王座を、ふいに襄陽(じょうよう)郊外から出て来たこの布衣(ほい)の一青年に譲らざるを得なくなっている。
ひと口にいえば、三国志は曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙(じょ)したものというもさしつかえない。
この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。
吉川英治が、曹操を「詩人」とするのは、曹操が建安文学を政治的に宣揚した文学者であるだけではなく、曹操が『三国志』の主役であることを示しています。
吉川は「三国志には詩がある」と言います。その詩を奏でる英雄こそが曹操なのです。曹操を「奸絶」として悪辣に描く毛宗崗本『三国志演義』とは違って、吉川は時代を切り開く曹操の革新性を高く評価したのです。
一九八二年からNHKテレビで放映された「人形劇・三国志」に人形を提供した川本喜八郎も、最初に吉川英治の『三国志』を読んだと言います。
川本がいちばん好きな登場人物は曹操です。「演義では曹操は悪人ですが、吉川英治先生の作品のなかでは、決して悪人としては描かれていません。それどころか、とても魅力的な人物として登場しています。吉川先生のおかげで、曹操もずいぶん復権したのではないでしょうか」と述べています(『よみがえる三国志伝説』別冊宝島編集部、一九九九年)。
あるいは、一九九四年から連載が始まった、原作李學仁(イハギン)・作画王欣太(キングゴンタ)の漫画『蒼天航路』は、曹操を悪としない「三国志」を描きます。吉川『三国志』の特徴である曹操の主役視を色濃く継承した作品といえるでしょう。