目指したのは一大叙事詩。日本の「三国志」に独自の解釈を加えた人物/三国志-研究家の知られざる狂熱-④
公開日:2020/4/28
「劉備が諸葛亮に遺した遺言が、しっくりこない!」。三国志の研究家は、何を「問題」と考え、何を「研究」しているのか? 120以上の論文を書き上げた第一人者が、その知られざる“裏側”と“狂熱”を徹底解説。
日本の三国志の伝統を継承
吉川英治の『三国志』は、一九三九年八月二六日、「中外商業新報」(現在の日本経済新聞)など五紙で連載が開始されました。同年五月一一日にノモンハン事件、九月一日に第二次世界大戦が勃発します。日本はすでに、泥沼化した日中戦争の最中でした。
吉川は、盧溝橋事件直後の一九三七年八月二日から、毎日新聞社の依頼で華北の戦線をまわり、翌年秋には漢口作戦に従軍しています。
尾崎秀樹(ほつき)「悠久の流れ」(『吉川英治全集』月報2、一九六六年)は、「そのおり体験した戦争の非情な素顔と、中国の人と土地に対する認識」が、二年後に筆をとった『三国志』のなかに、「強烈な色調を添えたにちがいない」としています。
吉川英治は、序文の中で次のように『三国志』の特徴を述べています。
三国志には、詩がある。
単に尨大(ぼうだい)な治乱興亡を記述した戦記軍談の類(たぐい)でない所に、東洋人の血を大きく搏(う)つ一種の諧調(かいちょう)と音楽と色彩とがある。
三国志から詩を除いてしまったら、世界的といわれる大構想の価値もよほど無味乾燥なものになろう。
吉川『三国志』の影響を受けたという横山『三国志』が目指した、「武将たちの戦争絵巻」を吉川は否定しています。
吉川英治は「三国志」を戦記や軍談とは捉えていません。「三国志」を一大叙事詩と位置づけているのです。
また、序文では、次のようにも述べています。
見方によれば三国志は、一つの民俗小説ともいえる。三国志の中に見られる人間の愛欲、道徳、宗教、その生活、また、主題たる戦争行為だとか群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状などは、さながら彩(いろど)られた彼の民俗絵巻でもあり、その生々動流(せいせいどうりゅう)する相(すがた)は、天地間を舞台として、壮大なる音楽に伴って演技された人類の大演劇(だいドラマ)とも観られるのである。
吉川は、「三国志」を叙事詩とするだけではなく、「人類の大演劇」ともしています。そして、その時代に止(とど)まらない「一つの民俗小説」であると言うのです。
こうした吉川の「三国志」観を培ったものは、幼少期からの読書でした。吉川は、同じく序文の中で、その原本について、次のように述べています。
原本には「通俗三国志」「三国志演義」その他数種あるが、私はそのいずれの直訳にもよらないで、随時、長所を択(と)って、わたくし流に書いた。これを書きながら思い出されるのは、少年の頃、久保天随氏の演義三国志を熱読して、三更(こう)四更(こう)まで燈下にしがみついていては、父に寝ろ寝ろといって叱られたことである。
萱原(かやはら)宏一「〝三国志〟のころ」(『吉川英治全集』月報2、一九六六年)には、『三国志』を書くことは、吉川の「長い間の宿志」であり、「吉川家の草思堂(そうしどう)文庫には、背皮の帝国文庫があったが、その中の〝三国志〟と〝水滸伝〟は目立ってボロボロになっており、何度も繰り返して愛読された証拠の、手沢(しゅたく)をとどめていた」(ルビは筆者)とあります。
帝国文庫の『三国志』とは、湖南文山の『通俗三国志』の活字本です。
それでは、吉川英治に影響を与えた湖南文山・久保天随は、どのような「三国志」を描いていたのでしょうか。
『三国志演義』の完訳は、順治七(一六五〇)年の序を持つ満州語版が世界最初となります。
『通俗三国志』は、それに次ぐ二番目の完訳で、元禄四(一六九一)年九月に、西川嘉長の賛助を得て、京都の栗山伊右衛門によって刊行されました。
訳者は「湖南の文山」と号していますが、その詳伝は明らかではありません。翻訳に使用した底本は、幸田露伴「新訂通俗三国志解題評説」(『通俗三国志』日本文芸叢書、一九一一年)により、毛宗崗本『三国志演義』ではなく、それを底本とした李卓吾本『三国志演義』であると明らかにされています。
上田望「日本における『三国演義』の受容」(『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』九、二〇〇六年)によれば、『通俗三国志』の普及に大きな役割を果たしたのは、天保七(一八三六)年から十二(一八四一)年にかけて刊行された『絵本通俗三国志』(八編七十五冊)であるとされています。
この本の重要性は、葛飾戴斗二世が描いた四百葉を超えるオリジナルの挿絵にあります。
戴斗二世は、名を近藤文雄、俗称を伴右衛門といい、葛飾北斎に師事しました。画姓は葛飾、戴斗という画号は師の北斎が十年近く用いた号で、これを文政二(一八一九)年に譲り受けています。その画風は、中国書への挿絵であるにもかかわらず、和風であることを特徴としています。
一方、久保天随(得二)は、明治四十五(一九一二)年に、日本で初めてとなる毛宗崗本の完訳『新譯演義三國志』を公刊しました。久保はその中で、李卓吾本と毛宗崗本の優劣を論じて、「李卓吾本のほうが原本に近いかもしれないが、文章としては整理された毛宗崗本がよい」と述べています。
現代中国への視座を反映
吉川英治は、湖南文山訳の李卓吾本、久保天随訳の毛宗崗本、二つの『三国志演義』を熟読玩味したうえで、「三国志」に自らの創作を加えているのです。
吉川『三国志』は、劉備が黄河の川面を見つめる場面より始まります。
年の頃は二十四、五。
草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
悠久(ゆうきゅう)と水は行く──
毛宗崗本『三国志演義』も、冒頭に川を歌った詞を掲げています。
滾滾(こんこん)たる長江 東に逝く水
浪花(なみのはな)に英雄を陶尽す ……
くらべてみると、両者の川が異なることに気がつきます。吉川が黄河から『三国志』を始めたのは、劉備の故郷涿州(たくしゅう)が北にあるからだけではないでしょう。
吉川は、中国人の民俗性を「平時にあっては温柔広濶」で、あるときには「狂激な濁浪を上げ」る「黄河の水」にたとえています。「狂激な濁浪」という表現には、戦争中の日中関係の反映がみてとれます。
ただし吉川は、その「両面のどっちも支那なのである」とし、序文において、次のように述べています。
だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱興亡(ちらんこうぼう)がそのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変っているが、なお、今日にも生きているといっても過言でない。
吉川英治は、三国志の人物が、今日に生きている、と言っています。約千八百年前の中国を描いた吉川『三国志』には、現代中国への視座が確実に存在しているのです。
われわれが、吉川『三国志』に出てくる人間像を古く感じないのは、大衆作家吉川英治が現代の視座を前提として、歴史小説を描いているからなのでしょう。