諸葛亮すら霞む?関羽の特別視が鼻につく『三国志演義』/三国志-研究家の知られざる狂熱-⑤
公開日:2020/4/29
「劉備が諸葛亮に遺した遺言が、しっくりこない!」。三国志の研究家は、何を「問題」と考え、何を「研究」しているのか? 120以上の論文を書き上げた第一人者が、その知られざる“裏側”と“狂熱”を徹底解説。
3.『三国志演義』
関羽を特別視
わたしは、筑波大学の七期生にあたります。生まれて初めての独り暮らしをした当時は、まだ常陸野の面影が残り、歩いて行ける外食屋さんも限られていました。そんな環境のなか、本ばかり読んで暮らしていました。とりわけ、平凡社の「中国古典文学大系」という全六十巻の叢書は、読みごたえがありました。
この叢書は、中国近世の白話小説が充実しています。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』の「四大奇書」(世に稀なほど優れた四つの小説)をはじめ、『紅楼夢』などの長編小説が収められているからです。すべて読了しましたが、結局『三国志演義』が一番おもしろいと感じました。日本では、『水滸伝』や『西遊記』も人気なのですが、創作部分が多すぎるように思え、物語世界に没入できませんでした。
『三国志演義』は、横山『三国志』や吉川『三国志』と比べたとき、関羽の特別視が気になりました。
東京の南、大田区で生まれ育ったので、横浜にはよく出かけました。今のように巨大ではありませんが、中華学校の片隅にあった関帝廟も見ています。関帝への信仰は知っていましたが、諸葛亮を押し退けるような関羽の特別扱いは、どうにも鼻につきました。
中国近代小説の祖である魯迅も、『三国志演義』の中で関羽の義が最もよく描かれる「義もて曹操を釈(はな)つ」の場面に、同様の感想を述べています。
赤壁で敗れた曹操は、退路を予測していた諸葛亮の伏せた趙雲(ちょううん)・張飛によって散々に打ち破られ、華容道(かようどう)で関羽の待ち伏せにあいます。兵が疲弊の極にあった曹操は、死を覚悟しました。
ところが程昱(ていいく)は、かつて関羽にかけた恩に縋るべきだと勧めます。
曹操はうなづき、直(ただ)ちに馬を進めると雲長(うんちょう)(関羽)に会釈して言った、「将軍には、その後お変わりないか」。雲長も会釈を返して、「このたびは軍師の命により久しく丞相をお待ちいたしておりました」。「わたしはこのたびの合戦に敗れて兵を失い、かかる窮地に至ったが、将軍には昔日(せきじつ)の情義に免じて、この場を見逃してほしい」。「わたしは丞相の厚恩を蒙ったことはありますが、すでに顔良(がんりょう)・文醜(ぶんしゅう)を斬って白馬での危地をお救いし、ご恩を報じました。今日は私情は許されませぬ」。
「貴殿が、五ヵ所の関で守将を斬られた時のことをまだ覚えておられるか。大丈夫たる者は、信義を重んじるもの。『春秋(しゅんじゅう)』に造詣の深い貴殿のことゆえ、庾公之斯(ゆこうしし)が子濯孺子(したくじゅし)を追った時のことをご存知であろう(衛(えい)の庾公之斯(くらきみゆきし)は、鄭(てい)の子濯孺子(こたくじゅし)を追い討ちしたが、子濯孺子の肘(ひじ)が悪く弓の引けないことを聞き、また自らの弓の師の師であったため、公私の狭間に悩み、鏃(やじり)を抜き取った矢を四本射かけて引き返した)」。
雲長は、義を重んじること山の如き人であったから、かつての日、曹操から受けた幾多の恩義、そして五関の守将を斬った時のことを思い起こして、心を動かさぬはずはない。その上、曹操の軍勢が戦戦兢々、みな涙を浮かべているのを見ては、惻隠(そくいん)の情を禁じ得なかった。そこで馬首を返すと、「散れ」と手勢に命じた。言うまでもなく、曹操を逃がそうという心からである。曹操は雲長が馬を返すと見るや、間髪を入れず、大将たちと共に一斉に駆け抜けた。
毛宗崗本『三国志演義』第五十回
魯迅は、『中国小説史略』のなかで、「諸葛亮は、曹操がそれで滅びる運命ではないと察知したので、わざと関羽に華容道を警備させておき、しかも、わざと軍法で迫り、軍令状という誓約を立てさせて派遣した。この諸葛亮の描写は、亮を狡猾に見せるだけだが、その結果、関羽の気概は凛然としている」と述べています。
魯迅は、諸葛亮を狡猾に見せる逆効果を生みながらも、関羽の気概を凛然と表現することを『三国志演義』が優先させたと言うのです。なぜ、それほどまでに関羽を尊重するのでしょうか。