お釈迦さまは知っていた!? 悲観も楽観もしない仏の教え
公開日:2020/4/18
2020年4月7日に政府より緊急事態が宣言され、私たちはより一層の自粛生活を余儀なくされています。ちょっとした不調でも新型コロナウイルスに感染したのではないかと怯えたり、休業要請や勤務時間の減少などによる収入減でこれからの生活に不安を感じたりしている方々も多いことでしょう。
落ち着かない日々を共に乗り越えるために、心を穏やかに保つ方法を学びませんか。『これだけは知っておきたい 図解 はじめての仏教』(長田幸康/KADOKAWA)では、お釈迦さまの生涯から仏教の考え方、日本仏教の歴史、現代葬や墓じまいなどの仏事雑学まで、仏教の基本的知識を網羅しています。
本書のなかから、こんなときだからこそ知っておきたい「お釈迦さまの教え」を抜粋してご紹介します。
極端に偏らず、穏やかに生きる──「中道」という考え方
悟りに至る実践「八正道(はっしょうどう)」の核心には「中道(ちゅうどう)」と呼ばれる原理がある。お釈迦さまが快楽と苦行の両方を経験した末に見出した、両極端に偏らない生き方や考え方だ。
仏典の中で弟子にこう問うている。
「琴の弦が張りすぎていたら、心地よい音色を発するだろうか? 琴の弦が緩すぎたなら、心地よい音色を発するだろうか?」(原始仏典『大品』より)
ぜいたく三昧がいくら楽しくても、老い、病、死は必ずやってくる。一方、苦行をいくら続けても、安らぎを得ることはできない。
「あまりに緊張して努力しすぎると心が昂り、努力しないでだらけていると怠惰になる。釣り合いのとれた努力をせよ」(同)
「中道」という言葉には「どっちつかず」といったネガティブなイメージもあるが、極端な考え方にとらわれない適切な道をあえて選ぶという意味だ。
たとえば、「人には実体があり、死んでも『我』が永遠に残る」という考え方は「常見(じょうけん)」、「死んだら何も残らないから、努力しても無駄だ」という考え方は「断見(だんけん)」と呼ばれる。どちらも極端な態度であり、どちらにも与しない立場が中道となる。
今の世の中、普通に生きているだけで快楽側に偏ってしまうもの。ついつい快楽におぼれてしまうことの心地よさと空しさを自覚しながら、折にふれて軌道修正を図るのが、私たちが実践できる「中道」だろう。
みんなが幸せになれば、自分も幸せになれる──「利他」の心
お釈迦さまが説いたのは、基本的にはひとりで悟りに至る道だった。しかし、「自分だけ悟ればいいのか?」という考え方が登場するのは自然なことだろう。そこから生まれたのが、大乗仏教で説かれる「利他(りた)」の精神だ。自分だけを利するのではなく、他者の利になるよう尽くす姿勢である。
私たちは一人ひとり別々の存在だと思ってはいても、実際には、だれひとり孤立してはいない。みんなどこかでつながっていて、お互いに依存し合って生きている。
だからこそ、ひとりが幸せになれば、周りの人たちも幸せになれると考えられる。
大乗仏教では自分と他人を区別することなく、さらにどんな相手でも分け隔てなく、思いやりを注ぐことを重視する。
「諸法無我(しょほうむが/すべてのものごとには実体はないという考え方)」であるから、確かな私などは存在せず、敵も味方もいつ入れ替わるかわからない。だから思いやりを注ぐ対象を限定すべきではないのだ。
親が子を思いやる気持ち、恋人を思いやる気持ち、友人を思いやる気持ちは一見、清らかで尊いように思える。しかし、対象を限定した思いやりには愛着がともなっている。愛着とは、対象から離れがたい気持ち、すなわち「執着」という煩悩だ。相手のためのようでいて、実は自分のためなのだ。
自分の欲を満たすためでなく、相手の幸せを願う「利他」の精神を発揮することで、みんなが幸せになれるのだ。