放火犯の疑いがある女と失踪した弟。真面目で律儀なはずの弟の真実の姿に、兄はたどり着けるのか──

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/18

『希望(きぼう)のゆくえ』(寺地はるな/新潮社)

 先日、ひさしぶりに父に会って驚いた。最近料理に凝っているそうで、スマートフォンでレシピを検索し、手際よく美味しい食事を作る。「そんな人だったっけ?」と思うのは、自分の中に「亭主関白な昭和の父親」というイメージがあったからだ。が、振り返れば、私は家事をしなかった昔の父に、「お父さんって亭主関白な人だよね?」などと確認したことはなく、勝手なイメージを抱いていただけだ。友人、同僚、周囲の誰にも、「本当はどんな人ですか?」とたずねたことはない。

 そんな事柄により深く向き合わざるを得なくなったのが、『希望(きぼう)のゆくえ』(寺地はるな/新潮社)の主人公・柳瀬誠実(やなせ・まさみ)だ。

 34歳の誠実は、妻とふたり、言いたいことを呑み込みながらもつつがなく暮らしている。そんなある日、誠実のもとに母からの電話が入った。弟の希望(のぞむ)が、仕事中に、ボヤ騒ぎを起こした女性とともに姿を消してしまったというのだ。「かけおちじゃないかって言われたのよ」。母は弟の失踪を、「古めかしすぎてむしろ滑稽にすら感じられる」言葉で誠実に伝えた。だが誠実にも、それはたしかに不自然なことだと思われた。弟は、律儀で几帳面な男だ。母が何度電話をかけても応じず、会社を無断欠勤しているなんておかしい。誠実は、母がこっそり作ったらしい弟の部屋の合鍵を持って、希望がひとりで暮らしていたマンションへと向かうのだが…。

advertisement

「希望、いるのか?」
 声をかけながら、手探りで電気のスイッチを探した。(中略)
 冷蔵庫の扉に古い家族写真が貼られているのが見えた。誠実のアルバムにも同じ写真があるので、離れた位置からもそれとわかる。(中略)
 誠実が結婚する時、披露宴で流すスライドショーに使うので子どもの頃の写真をくれと言われて、あの家族写真を渡した。ぎこちないながらも全員笑顔を浮かべ、いかにも仲の良い家族のように見えるから。

 ところが写真は、誠実の持っているものと同じではなかった。撮影した人が「一枚写真を撮ってから『もういいよ』と声をかけた直後にシャッターを切ると、リラックスした表情が撮れる」と言っていたが、どうやら誠実が持っているのは「もういいよ」の前の一枚、弟が持っているのは後の一枚だ。写真の中の弟は、記憶の中にある弟の顔のどれとも違う、知らない子どものような顔をしていた。誠実には、弟のことがわからなくなった。弟は、どんな気持ちでこの写真を飾り、眺めていた? 自分が見ていたのは、果たして本当の弟の姿だと言えるのか? 誠実は、希望のゆくえを知るために、彼とかかわりのあった人物をたずねて歩く。けれど、彼らの持つ希望への印象は、それぞれまったく違っていて──。

 人間はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。最初から最後まで、人と人とは他人同士で、知ろうとすることもなしにわかり合えはしない。よく言われることではあるが、こんなにも簡単なことを、わたしたちはつい忘れがちだ。家族やきょうだい、恋人などの、近しいと思い込んでいる間柄でも、もちろんそれは起こりうる。だからこそわたしたちは、「そんな人だとは知らなかった」「こうしてくれると思っていた」というギャップに怒り、悲しみ、ときには自分自身についてさえ、本当の姿を見失ってしまうのではないか。

 今注目の作家が、現代人の淡い距離感をやさしく見つめて綴る1冊。読了後は、大切な人や自分自身の、本当の姿をたずねてみたくなるに違いない。

文=三田ゆき