“赤ちゃんの意識”が家電の中にかくれんぼ!? 暴走する家電たち/“キッチン・ローダー”『7分間SF』⑤
公開日:2020/4/29
辺境の惑星で調査隊が出会った食料資源“カツブシ岩”の正体とは? 思わずあっと驚く結末が今度もあなたを待ち受ける!1話7分で読めていつでもどこでも楽しめる、人気のSF作品集。
わたしは、ゆっくりと、このうえなく静かに、ベッドから抜け出した。案の定、カケルが目を覚まして、ぐずぐず言い始める。起きていてほしいと思った時にはすとんと寝こみ、寝ていてほしい時にはいちはやく目を覚ますこの子の才能が、ときどき憎たらしく思えることもある。わたしったら、どうして、この子の養育権を取ることに固執したりしたのだろう。在宅勤務のネットワーカーである、元夫のほうが引き取っていたら、無理なく養育できているはずなのに。せめて、小学校に行くまでの間だけでも、向こうに任せておけば──。
この世に残念なことは他にもいっぱいあるが、マンションのネットワークにおむつを替えるシステムがないのも、その一つだ。わたしは、カケルをベビーベッドの上で押さえつけ、濡れたオムツを剥ぎ取った。それから、寝室に備え付けてあるストッカーを、電子的につっついて、紙おむつを一個転がり出させる。二秒でテープを止め、使用済みのほうをリサイクルボックスに叩きこんだ。わざわざ、リサイクルボックスに意識をロードする必要はない。嫌な思いをして、中の状態を確かめなくても、まだ収容能力に余裕があることはわかっている。
上機嫌でカーペットの上を這い始めたカケルをふんづけないように注意しながら、紙製のアンダーを身につけ、シャツブラウスを羽織る。どっかそのへんから引っ張り出してきたスラックスをウエストに引っ張り上げながら、右足の下のほうがしわしわなのに気づく。近いうちに、プレッサーのプログラムをなんとかしなくちゃ。でも、たぶん、今晩も忘れるだろう。Tシャツにジーンズのほうが性に合ってるし、プレッサーに入って衣類にフォールをかけるのはぞっとしない体験だから、潜在意識が服をプレスするという行為に抵抗しているのだ。
ストップ、ストップ。そんなことを考えている場合じゃない。
カケルの『身の回り袋』をチェックして、今月の給食費をまだ振りこんでいないことを思い出す。これは、今晩まで待てない。民間託児所の経営はシビアだから、払いが滞ると子供を突っ返される恐れがあるのだ。わたしはまた意識をネットワークに送りこみ、二十四時間営業の銀行送金システムに入った。蛍光灯に照らされた、冷たく事務的な部屋だ。財布の中身をテーブルにぶちまけ、乏しい預金残高にため息をつきながら、給食費と消費税をスロットに投げこむ。
急ぎの用事を済ませると、わたしはネットワークの外に出た。さあ、現実に立ち向かう時だ。カケルをとっつかまえ、脇にぶら下げるようにして、ダイニングに駆けこむ。
朝食の準備は、ほぼ調っていた。念のため、キッチン管理機構をチェックしてから、ご飯をよそい、お鍋に豆腐とワカメと味噌を放りこむ。味などかまっている暇はない。一煮立ちしたところで、ごはんに味噌汁をぶっかける。
カケルの離乳食は、もっと簡単だ。温まった瓶の蓋を取り、スプーンを添えるだけ。最近は、ほとんどミルクを欲しがらず、この気色の悪いペーストだけで満足してくれているようなので、とても助かる。
わたしの食事は、ものの二分ほどで済んだ。が、カケルのほうは、そうもいかない。ほったらかしておくと、スプーンを鼻の穴に突っこもうとしたり、テーブルセンターをキャンバスに見立てて、ピーナツバターで即興芸術に取り組んだりするからだ。こっちがその対処に大わらわになっていると、本人は椅子の肘掛けから、床に自殺的バンジージャンプを試みたりする。やっぱり、フロイトは正しかったのかしら?
「ダメよ」
カケルが、何か楽しいことを思いつくたびに、わたしは叫ぶ。
「ダメ、よしなさい。悪い子ね、何度言ったらわかるの?」
わたしが大声を出すと、カケルは大喜びでくっくっと笑う。天使の笑顔だ。いや、悪魔のほうだろうか。
なんとかピーナツバターの瓶を空にして、顔と手とよだれかけのべたべたをふいてやってから、わたしはカケルを解放した。椅子から下ろせば、とりあえず飛び降り自殺の心配はない。職場で栄養失調で倒れないように、生卵を一個飲んでから、今度は出勤の準備にかかる。
例の企画書はどこだ。昨日、確かテーブルの上に置いて──。わたしは、絶望のうめき声を上げる。ついさっき、ピーナツバターで汚れたテーブルセンターだと思いこんでいたものの正体に気づいたからだ。企画書をゴミ箱から救出し、『魔法の化学雑巾』で、とりあえずの応急処置を試みる。
身分証明パスは? えーと、昨夜、カケルがおもちゃにしていたのを取り上げたんだから──パスは、なぜか椅子の背もたれの裏で見つかる。そうか。カケルの手の届かないところに隠したんだっけ。ロッカーのキー。あれは確か──。
いつもの、朝のどたばた劇。慌ただしいが、別に悲惨というほどではない。いつもと違う、厄介なことになったのは、なんとか身仕度を終えてからのことだった。
カケルの姿が見えない。うっかり開けっ放しにしていたチャイルドガードを抜けて、居間のほうに遠征していったのにちがいない。
「カケル!」
と、わたしは金切り声を上げた。
「カケル、どこなの?」
あーとも、うーとも、むむむむとも、返事はない。わたしは嫌な予感に襲われて、居間に駆けこんだ。カケルは、床にひっくり返って、幸せそうに寝こんでいる。今起きたばかりなのに、変ね。しかも、あんな隅っこのアクセス・プレートの下なんかで──。
げげっ。
神経電流を高速スキャンして、ネットワークに意識を出し入れするためのアクセス・プレート。つかまり立ちをすれば、大きなプレートの端に手が届く。
「カケル!」
わたしは、声を振り絞った。
「もう、あの子ったら、どこなの?」
わたしは唇を噛んだ。ネットワークには何百もの機器が繋がっている。冷蔵庫、コムマシン、テレオーディオ、ミキサー、振動カッター、水道制御チップ、レンジ、掃除機、コーヒーメーカー、湯沸かし器、プレッサー、ストッカー、皿洗い機、洗濯機、乾燥機──。カケルがそのどこに潜りこんでいても不思議はない。パスワードなんか知るわけないから、ローカルドメインを出ていないことだけは確かだけど──。
もう、時間がないっていうのに。
「カケル!」
答えはない。わたしは唇を噛みしめた。絶対今晩のうちに、アクセス・プレートを付け替えるか、内部ファイアーウォールを設定すること。
「カケル、カケルったら──」
わたしは、頭の中にロードされている時計プログラムを確かめた。八時十分。家を出なくちゃいけない時間まで、十五分もない。まだ、洗濯機を回して、ざっと掃除機をかけて、顔塗りをして、トイレも行かなくちゃならないのに。
時間がない。えーい、時間がない。どうして、こういう時にかぎって、こういうことになるの? カケル、おまえはやっぱり、悪魔の子だ。
罵り声が口から出かかった瞬間、浴室のほうで、ごぼっという水の音が聞こえた。給湯システムだ。
「ようし、いい子ね」
わたしは、そっと、洗面所に向かった。
わが灰色の脳細胞が、めまぐるしく回転を始める。給湯システムをネットから切り離すスイッチは、確か洗面所右手の壁──ブレーカーボックスの横にある。まず、そいつをシャットオフする。それから、意識を洗濯機のあたりに送りこんで、給湯システムのバスを塞ぐ。そしてネットワーク側から接続を再開して、カケルのちっぽけな意識を回収──。そこまで考えたところで、冷や汗が出た。回収に失敗したら、カケルの意識とわたしの意識がごちゃごちゃになってしまうかもしれない。そうしたら、トラウマの心配があろうとなかろうと、二人ともリセットするしかない。わたしはきっと、もう一度オムツを替えようとし、もう一度朝食を食べようとして──。ま、遅刻するのは確実だ。
洗面所に辿り着いたわたしが、そろそろと切り離しスイッチに手を伸ばした時、今度はキッチンで、キーンというやかましい音が響いた。国際便のジェット機が離陸しようとしているみたいなあの音は──。
まだローンを払い終えていないスマート負荷制御ミキサー。離乳食用に買ったものだが、まだ一度も使ったことがない。いや、なかった。わたしは思わず怒鳴り声を上げた。
「カケル、いたずらしちゃダメ。そこに、じっとしてなさい!」
権威ある母親の指示も空しく、キッチンに行き着いた時には、もう遅かった。今度は、居間のテレオーディオ・システムが目を覚ました。ミュージック・バンクから、間の抜けたポップスが、大音量で流れ出す。
「カケルったら!」
わたしは、流し台の角に、いやというほど太腿をぶつけて、転びそうになった。壁に手をついて、なんとか身体を支える。
腿をさすりながら、居間に駆けこむと同時に、今度は食器洗い機が作動を始めた。まったくもう。ちょろちょろしやがって、あのガキ。
時計はもう、八時十五分。ちくしょう、こうなったら──。わたしは、アクセス・プレートに手を伸ばしかけてから、ためらった。
やみくもにネットワークに飛びこんでも、うまくカケルを見つけられるとは限らない。ネットワークは隠喩と論理の世界で、普通の意味で、カケルの姿が見えるわけではないのだ。わかりやすいところにいてくれればいいが、もう、テレオーディオにまで行ってるとなると──。