買ったのに読んでない…でもOK。「積読」がおすすめされる画期的理由とは?
公開日:2020/4/26
読みたいと思っていたのに本をなかなか読み切れず、後ろめたさを感じた経験はないだろうか? 楽しみにして買ったのにまだ読み始めていない本、読んでいる途中になってしまったままの本――それらの本は、総じて「積読」と呼ばれる。
そんな積読の“後ろめたさ”を超越し、あえてそれを「完全な読書術」と定義するのが、『積読こそが完全な読書術である』(永田希/イースト・プレス)だ。著者の永田さんは、本を紹介することを仕事にしている書評家でもある。
積読を肯定することは、ある種の変化球のように感じるかもしれない。しかし本書は真正面からストレートに積読について論じ、その意義を的確に示していく。本書の最後のページまで進めば、きっと積読への考え方が変わっているはずだ。
「積読」には、きちんとした意味がある
まず、本とは、読まれることだけを期待されるものではないという。
“書物はそもそも「積まれる」ために書かれ、保存されてきました”
記録物としてそこに積んでおくだけでもれっきとした価値があるのだ。
“書物とは、多くの人に忘れられている性質かもしれませんが、何年も、何十年も、何百年、何千年と「読み継がれる」ことがあるものです。せいぜい百年かそこらで肉体を維持できなくなる人間とは異なり、書かれたことは時間を超えることができるのです”
そして、積読は、私たちにとって「情報の濁流」に対抗するための手段でもあるという。膨大な情報の中で混乱しがちな私たち。その解決の糸口となるキーワードは「ビオトープ的積読環境」だ。本書によれば、そもそも「完全な読書」はありえず、あらゆる読書は「読みこぼし」を含む不完全なもの。本を最後のページまでめくったとしても完全な理解ができたとは必ずしもいえないのだから、私たちは「読めた」といえないのではないか…。そうした論点を提示するのは、本書の推薦もしている哲学者の千葉雅也さんだ。
本を積んでただそこに置いておくこと――校庭の隅にある人工の池、すなわちビオトープのように環境を構築することで、情報の濁流に飲み込まれないよう立ち向かうことができるというのだ。
哲学者のショーペンハウアーや精神分析家のピエール・バイヤール、片づけコンサルタントの“こんまり”こと近藤麻理恵さん、独立研究者の山口周さんといった人々の意見を積極的に参照しながら、本書独自の「積読論」がダイナミックに展開されていくのも読みどころだ。
“読みもしないでこんなに買って積んでいいのだろうか、というくらい、本をまずは手元に集めましょう。積むのです。”
本書を手に入れてもこれまた“積読”になってしまうのでは…と心配する人も、どうか安心してほしい。
“本書を積読することは、それ自体が本書を読んでいることでもあります”
さあ、本を積もう。
文=えんどーこーた