歴史の偉人は、しくじり先生!? 「人生オワタ」と思った瞬間を乗り越えた人と駄目だった人
公開日:2020/5/31
成功者が語るノウハウを真似してみても、様々な条件の違いによって、あるいは努力の仕方や方向性が適していなければ、なかなか自身の成功はおぼつかない。失敗した事例に目を向け、なおかつ逆転劇の面白さで人気を博したテレビ番組『しくじり先生 俺みたいになるな!!』も巷では人気だ。また、こういったテーマの書籍も増えてきた。この『日本史 しくじり大図鑑』(小和田泰経:監修、中川いさみ:イラスト/ホビージャパン)は、歴史上の人物の「失敗から学ぶ」ために、古墳時代から近代までの著名な偉人を1人につき4ページ程度で時代の移り変わりとともにマンガで解説しており、歴史に詳しくなくても親しみやすい構成だ。
左遷されても腐らない
学問や芸術の神様として有名な菅原道真は、「天皇に謀反を企んでいる」と政敵から濡れ衣を着せられ福岡の大宰府に左遷となり、都に帰ることなく2年後に亡くなってしまう。その後、道真を左遷した藤原一族が相次いで急死したり、天皇の生活の場である清涼殿が落雷で炎上したりしたため、神様として祀られることになった。しかしそれを別にしても、もともと学者だった道真は大宰府に行っても腐ることなく好きだった詩を作り、文化活動に打ち込んでいたという。それがあってこそ、人々に信仰されるようになったのだろう。
信義を通せば誰かが拾ってくれる
最強の武将として知られる立花宗茂は豊臣秀吉に「日本無双の勇将たるべし」と褒め称えられ、その恩義もあって関ヶ原の戦いで西軍の石田三成についた。しかし敗北し、改易の憂き目に。実力があったおかげか前田利長や加藤清正といった有力大名からヘッドハンティングされるも、筋を通すために断り続けていたところ徳川家康から声がかかり、これを受け入れて表舞台に復帰。旧領の10万石を全て取り戻したのだとか。本書によれば、「改易されても領地を取り戻した唯一の武将」とのことで、世渡り下手でも己の信義を通したのが良かったのかもしれない。
調子に乗って台無しに
「判官贔屓」なんて言葉があるくらい、現代でも人気の源義経。まさか、天狗に育てられたという伝説のせいで気持ちまで天狗になった訳でもないだろうが、戦で天才的な活躍をして都で人気者になった義経は、朝廷から勝手に官位をもらってしまった。これにより朝廷とは距離をとり、鎌倉で武士中心の政治体制を確立しようとしていた兄の源頼朝との仲がこじれてしまう。最終的に対立し、追い詰められた義経は自害するはめになってしまう。調子の乗り過ぎには、くれぐれも気をつけたいものである。
趣味に生きればいいじゃない
源頼朝の死を転機に承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、あっさり返り討ちにあい、隠岐に流されて生涯を終えた。かつて上皇の勅命によって編まれた『新古今和歌集』は日本史に残る大文化事業として有名だし、自らも和歌を残しているうえ、なんと刀まで自分で打っていたそう。そんな趣味人だった上皇。後世の徳川慶喜のように権力から離れて隠居生活に入り、趣味に興じていれば、穏やかな余生を送れたかもしれない。慶喜の方は囲碁や弓道に親しみ、写真や油絵なども上手で、隠居生活をエンジョイしていたそうだ。
趣味に生きると云えば、織田信長に討たれた今川義元の息子、今川氏真は蹴鞠などの雅な遊びに興じるあまり今川家を潰してしまうも、北条氏や徳川家康のサポートを受け、悠々自適にセカンドライフを過ごした。なにしろ「親の仇・信長の前で蹴鞠を披露した」というから、あっぱれとしか云いようがない。
頼みの綱は人間関係
幕末に活躍した人物で、特に人気のあるうちの一人は坂本龍馬だろう。奇抜な発想力と抜群のコミュニケーション能力を持ち、行動力も群を抜いていた。日本初の株式会社とも云われる亀山社中(のちの海援隊)を設立したことから、現代でもその起業精神を高く評価している人がいるくらいだ。だが、「マージンを取らずに商売をしていたため」利益が上がらず、土佐藩や土佐商会を設立した後藤象二郎にたびたび金を無心していたそう。龍馬の成功は、それを支える友人に恵まれていたことが大きいのかもしれない。
同じ土佐藩出身の板垣退助は、上士でありながら当時身分差のある下士に優しく、官軍として戊辰戦争に参加した際には、会津藩や旧幕派にも親切に接したという。それどころか、自分を斬りつけた犯人の助命嘆願書を出し、のちに極刑を免れた犯人が謝罪に訪れたという。民衆や敵方からも支持された理由が分かろうというもの。
これを読んだ際、さて、私には頼れる友人が何人いるだろうかと指折り数えてみようと思ってやめた。
文=清水銀嶺