自分に足りないかけらを探して 満たされた記憶と寂しさを思い出させてくれた絵本【読書日記19冊目】
公開日:2020/5/11
2020年3月某日
恵比寿のイタリアンバルにて友人を待つ。
金曜とはいえ19時の時点で満員。予約客以外受け付けていない感じだったから、人気のお店なのだろう。私はかしこまったお店が苦手で、いつもは汚い感じの店かチェーン店に好んで行くのだけれど、今日会う友人とは何となくちょっと背伸びしたデートっぽい店に行く。「この人といえば中華」とか「この人とは新規開拓をする」とか、食べ物やお店が結びつく人がたまにいる。でも、今日会う友人は私の中で「デートっぽい店の人」なのだ。
頻繁に連絡を取ったり会ったりはしないから、会える日をちょっと特別に思っているのかもしれない。SNSで元気がなさそうなつぶやきを見たら「いいね」を押し、「見てるよ」を伝えて、頭の中にお互いを住まわせてはいることを確認し合っているけれどメッセージを送ることはしない。そして最後に会ってから3~4カ月後に、どちらからともなく「そろそろ会わない?」とおそるおそる連絡をする。
彼は急に距離を詰めてこないから安心するし、私が暴走して彼を傷つけるようなこともない。それでいて、私に自分の願望や欲望を投影せず、丁寧に“観察”してくれていると感じるから信頼できる。一定の距離を保った、概ね平行線の、海の底に根を張る海藻のようなゆるやかな曲線。彼と私の関係をかたちで言い表すなら、そんな感じだろう。
ぼんやりと宙を眺めていたら視界にひゅっと友人が現れてびっくりする。そうだ、私はこの人を待っていたんだった。私たちはワーッと歓声に近い声をあげて、子どもの手遊びのように手のひらを何度か重ねて再会を喜んだ。私は同じ人に何度でも人見知りをするので、いつも以上に目をしばたたかせながら、どういう風に話していたか記憶を手繰り寄せるけれど思い出せない。とりあえず飲もう、飲もうと言いながら注文し、視線を泳がせてビールの到着を待った。
*
お互いの仕事のこと、社会のことなどを夢中で話し連ねたら気づけば3時間経っていて、ビール3杯とワイン1本が空いていた。この頃になると左右に揺れながらどんな話もニコニコして聞いていたと思う。そんな上機嫌な子どものような私に渡すものがあると言って、彼は大きな袋を出してきた。「これはあなたがそう思うときもあるかもしれないし、そう思わないときもあるかもしれないんだけど」という前置きを添えて贈ってくれたのは『ぼくを探しに』(講談社)という絵本だった。
パックマンのような素朴な絵が描かれたこの本は、
何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを
探しに行く
というフレーズから始まる、“ぼく”の口に当たる部分にぴったりハマるかけらを探す旅の話だ。
常に欠けている“ぼく”は懸命にいろいろなかけらを見つけては、その隙間を「埋めよう」とする。その態度を拒絶されたり、試したかけらが大きすぎたり小さすぎたり、ときに壊してしまったりしながら、“ぼく”はかけらを探し続ける。
それだけ聞くと、おしなべてかなしいストーリーなのだけれど、その上に乗せられた絵が、それこそ小さな子どもが描いたように肩の力が抜けたタッチで描かれているから刺されるような痛みはない。ただ、そのコントラストが、海の波が引いていくときのような寂しさを湧きあがらせる。
かけらを探し続ける“ぼく”は、ある日ついにぴったりのかけらに出会う。
「やあ」とぼく
「あら」とかけら
「きみは誰かのかけらかな?」
「さあどうかしら」
「でもきみは きみのままでいたいのかもしれないね」
「誰かのものになったって あたしはあたしよ」
「でもぼくのものにはなりたくないかもしれないしね」
「さあどうかしら」
「でもぼくにはうまくはまらないかも……」
「やってみたら」
きっとこの瞬間、“ぼく”は内心「きみはぼくのかけらだ」と確信していたのだと思う。それでも、相手の反応をおそるおそるうかがう“ぼく”に、私は結婚することになった人と出会ったときの自分を重ね合わせていた。
小さい頃からずっと寂しくて、自分の“片割れ”を探しているような気分でとっかえひっかえ、というと言葉は悪いけれどとっかえひっかえ、この人じゃないこの人でもない、とクローゼットにいっぱいになった服を押し分けるように、ときに暴力的になるほどに、まだ見ぬ誰かを探していた。社会人になってからの恋愛はほとんどが片思いに終わり、もう恋愛はいいかなというタイミングで現れたのがその人だった。
今度は壊すまい、傷つけまい、だけど逃げられてしまわないように、おそるおそる近づく中で私とその人は“一緒”になった。同じ屋根の下で寝食をともにするうち、食べたいものや考えていることが似通ってきて、本当に何もかもが一緒になってしまったらどうしようと怖くなるほどだった。
その後かけらと一緒になり“完全な球体”になって軽やかに加速していく“ぼく”を見て、自分の生がまるきり祝福されたようなあの頃のことを思い出した。私が人生で唯一、安心しきっていた時期の記憶。
その“記憶”についてはこちら
*
朗らかな空気が漂うラストまでを読んで、私は「かなしくてさみしいね。でもうれしい、ありがとう」と伝えた。彼に真意が伝わったかはわからないけれど、彼がこの本を渡すときに伝えてくれた「これはあなたがそう思うときもあるかもしれないし、そう思わないときもあるかもしれないんだけど」というエクスキューズが何よりうれしかった。
常に寂しくて、乾いていて、足りない何かを四六時中探し続けているわけではない。「これはあなたのための本だよ」と言って差し出されたら、勝気な私は、もしかするとちょっとムッとしていたかもしれない。それでも、ずうっと不完全で寂しい私を灯りで照らしてくれたような、そういうやさしさが彼から、この本から感じられたのだった。
すでにビール3杯とワイン1本を空けていた私たちだったけれど、そこからさらにワイン1本を空けて閉店ギリギリまで話し尽くした。記憶もおぼろげながら、別れ際もハイタッチしてさよならした気がする。でも、次に手を重ね合わせられる日はいつなんだろう。
二日酔いの翌朝、這うようにしてカバンに手を伸ばしては引き寄せ、絵本を最初から読み返してみた。
最初のページには「だめな人とだめでない人のために」と書いてあって、私は布団の中でカラカラ笑った。
文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura
【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka