「ゾンビ学」で『鬼滅の刃』のヒットの理由を探る! ゾンビはいつから全力疾走をはじめた?
更新日:2020/5/21
外出自粛で自宅時間が増え、動画配信サービスが好調だという。一部のサービスでは、アニメに力を入れているようだ。中でも『鬼滅の刃』の人気はとどまるところを知らない。
『鬼滅の刃』は、なぜ絶大な人気を誇るのだろうか。これまで、さまざまな切り口で分析がなされてきた。「ゾンビ学」も切り口のひとつだ。「ゾンビ学」というからには、立派な学問だ。『大学で学ぶゾンビ学 〜人はなぜゾンビに惹かれるのか〜』(岡本健/扶桑社)の著者である岡本准教授は、近畿大学や同志社女子大学でゾンビ学を講義してきた。近畿大学の2019年講義では、履修希望者が多すぎて2回授業となったほどだという。本書は、著者があらゆる角度からゾンビを分析した、ゾンビ総合研究書である。
『鬼滅の刃』の分析を紹介する前に、先行のゾンビ研究をすこし見てみたい。そう、ゾンビはすでに研究されているのである。本書は、ゾンビ研究を3つの群にわける。
1つ目は「現実的ゾンビ」の群。ゾンビの始祖は、西インド諸島の宗教「ヴードゥー教」の呪術によって生み出された、とされる。この呪術で使われるのが「ゾンビ・パウダー」なる粉末。ゾンビ・パウダーの成分や効果に対する人々の関心は、やがて毒性学分野の研究へと繋がっていく。「現実的ゾンビ」の群はフグ毒、キノコ、そして寄生虫まで、実際の人体への作用に繋がる研究領域だ。
2つ目は「虚構的ゾンビ」の群。映画や小説、アニメ、マンガ、ゲームほか、人間の想像力が作り出した架空世界のゾンビを研究する領域。
そして、3つ目は「概念的ゾンビ」の群。哲学用語に「哲学的ゾンビ」がある。これは、「人間のように振る舞い、飲み食いをし、感覚があり、会話もできる。しかし、意識や意志を持っていない機械仕掛けの人形」なる存在である。意識と行動との関係を探る思考実験で用いられる、認知哲学ではいわば流行語のような用語だが、つまりは「概念的ゾンビ」は概念と密接する領域だ。
3つの群、いずれも興味深い内容なのだが、本記事では「虚構的ゾンビ」にフォーカスしたい。
ゾンビはいつから全力疾走するようになったのか
おもしろい研究がある。ゾンビはいつから全力疾走するようになったのか。ゾンビ映画の歴史を追ってみよう。本書によると、映画にゾンビが登場した最初は1932年の『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』。このゾンビはヴードゥー教のゾンビをモデルにしているため、人を食べないし、感染もしない。もちろん走らない。呪術師によって意のままに使役されるだけの存在だ。歴史を端折って1968年に、人食いゾンビが初登場する。ジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だ。このゾンビは誰に操られるでもなく動き回り、生きている者に噛みつく。襲われて死んだ者はゾンビになり、他者に襲いかかる。この時期は「グール」と呼ばれていた存在だが、現在のゾンビの原型といえる。
1978年には同監督の『ゾンビ(原題:Dawn of the Dead)』が公開され、単なるモンスター・パニックものではなく、ゾンビが現れた世の中を描きながら現実社会について思考させる点が、後のクリエイターに大きな影響を与えることになる。そして、ついに1985年、ダン・オバノン監督の『バタリアン』でゾンビが走るようになる。ただ、この作品はコメディタッチであり、ゾンビの疾走がその他作品に採用されるのは、2002年、ダニー・ボイル監督の『28日後…』を待つことになる。
他方、ゲームでは1996年に『バイオハザード』が発売されていた。この『バイオハザード』と『28日後…』のある共通項が、2000年代におけるゾンビ作品の世界的な爆発的増加を生む。その共通項とは、ゾンビ化の原因を「ウイルス」に求めていること…つまり「ウイルス感染」だ。
なぜ、「ウイルス感染」がブレークスルーなのか。本書によると、日本のような火葬が一般的な国では、死体が墓から蘇らない。ゾンビは身近な恐怖とは感じられない。しかし、ウイルスに罹患すればゾンビになる、さらに人を選ばず感染が広がる、ということであれば、国や文化圏を問わずにゾンビ作品を作ることができるし、人々に身近な恐怖を与えることができる。まして、移動社会である現代であれば、その恐怖は増す。
『鬼滅の刃』が描く「引きこもり」と「決断主義」
さて、現代日本では、「ゾンビ的な存在」が現れ、人間と対峙するコンテンツ作品が人気だ。『進撃の巨人』『東京喰種 トーキョーグール』『亜人』、そして『鬼滅の刃』。これらの主人公は、いずれも種族間…つまりゾンビ的な存在と人間との間に立ち、作品では「価値観の対立」が描かれる。
さらに、『鬼滅の刃』について見てみると、「引きこもり」と「決断主義」の価値をどのように調整して生きていけるのかを描いているとされる。自分の責任で何らかの決断を瞬時に行わなければ生き残っていけない「決断主義」の世界で、「引きこもって」いる弱い存在では、誰も助けてくれないし、問題が解決しない。
「引きこもり」が作品の価値観として提示されたのは1995〜2001年頃で、代表的作品は『新世紀エヴァンゲリオン』。社会における社会的自己実現への信頼度が低下し、社会的自己実現に拠らない承認を欲する「気分」を代弁するものとしてヒットしたと分析されている。
「決断主義」の提示は2001年以降、9.11のアメリカ同時多発テロ事件、小泉純一郎のネオリベラリズム的な構造改革路線、格差社会の意識の浸透などにより、たとえ他者を傷つけることになっても決断、行動しないと生き残れないといった価値観から、『DEATH NOTE』などがヒットしたと分析される。
考えてみれば、ブラッド・ピット主演のゾンビ映画『ワールド・ウォーZ』で主人公が対峙する世界観と類似している『鬼滅の刃』は、人間とゾンビ的な存在である鬼、さらに「間」の存在が入り乱れることで、社会問題を盛り込んだジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』の流れを汲むに留まらず、深掘りしている。
『鬼滅の刃』は連載本誌で最終回を迎えた。「引きこもり」から受け継いだ「決断主義」の世界で、炭治郎は人間性を保つことができたのか。次の価値ステージは、刃によって切り開かれたのか。本誌で確認しつつ、ゾンビにも思いをはせてみてはどうだろう。
文=ルートつつみ(@root223)