50歳過ぎのヤクザ専門ライターが死にかけたのは…ピアノのお稽古!? 涙と笑いのレッスン奮闘記
公開日:2020/5/28
ある程度の年齢になって、金銭的、精神的な余裕が出てきたとき、自分の仕事とはまったく関係のない習いごとをはじめる人が結構いる。その習いごとはダンスだったり、料理だったり、油絵だったりと人それぞれだが、ギターやピアノなどの楽器をはじめる人も多い。
『ヤクザときどきピアノ』(鈴木智彦/CCCメディアハウス)は、楽譜の読み方も知らなかったという著者が、52歳になったときに一念発起し、ピアノを習おうとする奮闘記である。ここでおもしろいのは、著者の本職が“ヤクザ専門のルポライター”だということ。
著者はヤクザ専門誌『実話時代BULL』の元編集長で、日本の漁業とヤクザの関係を深掘りした『サカナとヤクザ』(レビューはこちら)など、“そちら関係”の著作も多い。本人いわく、「俺の語彙は裏・闇・黒という三文字の裾野に偏っている」とのこと。そんな著者が本業とは畑違いにもほどがある音楽の世界に飛び込むのである(つまり、書名で勘違いしそうになるが、本書はピアノを弾くヤクザの話ではなく、ヤクザ専門ライターがピアノを習う話だ)。
長年、楽器演奏とは無縁の世界を歩んできた著者だが、じつは子どものときからずっとピアノを弾くことに憧れていたという。それでも、自分には無縁のものと諦めていたのだ。その封印していた感情の蓋を破ったのは、たまたま観た映画『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』のなかで流れていたABBAの「ダンシング・クイーン」だった。
映画館でこの曲を聴いた途端、なぜか涙が止まらなくなった著者は、急にピアノでこの曲を弾きたいと強く思ってしまったのである。そして、次の日からネットで自宅近くのピアノ教室を調べ、片っ端から電話をかけて相手が出ると、いきなり「『ダンシング・クイーン』が弾きたいんです」と質問し続けたという。この辺の突撃精神は、本職での経験が活きているといえるだろう。
そして、「練習すれば、弾けない曲などありません」と断言してくれたレイコ先生というピアノ教師と出会ったことから、著者の笑いと汗と感動の入り混じったピアノ・レッスンがスタートする。さらには、勢いでピアノの発表会に出ることまで決めてしまう。はたして発表会の日までに無事「ダンシング・クイーン」を弾けるようになるのか――。
大人が「習いごと」をはじめる魅力とは?
それにしても、本書に書かれている「大人の習いごと」の世界は楽しそうだ。子どものころの習いごとというと、親に無理矢理やらされたり、あるいは最初は自分がやりたくてはじめたとしても、単調な反復練習やスパルタ教育にだんだんと通うのが嫌になってしまうことも少なくない。だが、「大人の習いごと」は、著者が言うように「修行ではなく余暇のひとつであり、先生は師匠というより遊びをレクチャーしてくれるガイド役」である。先生との相性さえよければ、それは純粋な「遊びの時間」となるのだ。
また、本書を読んで、いまの大人向けピアノ・レッスンの至れり尽くせりぶりには少々驚かされた。初心者でも飽きないように、簡単に弾け、かつ弾いていて楽しい曲から着実にレベルを上げてくれ、演奏の動画やMIDIデータなども有料でダウンロードし放題なのだ。子ども時代、おっかない先生に見張られながら、バイエル、ブルグミュラーと地味な練習を続けた経験のある身としては、うらやましい限りである。
さて、とうとう著者は発表会の当日を迎えるが、その顛末はここでは明かさないでおこう。ただ、ヤクザに恫喝され、脅迫されるのが日常茶飯事だという著者が、発表会で緊張のあまり死にそうになってしまうのは、なんだか微笑ましい。ともあれ、本書を読み終えたとき、きっとあなたもなにか「大人の習いごと」をはじめたくなるはずだ。
文=奈落一騎/バーネット