「人間は、実に馬鹿なり」…若き日の山田風太郎は戦時下の日本でなにを見たのか

マンガ

公開日:2020/6/2

『風太郎不戦日記(1)』(山田風太郎:原作、勝田文:漫画/講談社)

 日本を代表する作家のひとりである山田風太郎といえば、やはり「忍法帖シリーズ」がお馴染みであろうか。私はといえば、幼き頃に観た映画『魔界転生』で、ジュリーこと沢田研二扮する天草四郎時貞が、己の首を手に高らかに笑うシーンがやたらと印象に残っている。そんな大作家である山田が1971年に発表したのが『戦中派不戦日記』だ。これは山田が23歳であった昭和20年、つまり終戦の年に記された日記なのである。日記文学の最高峰とも称される作品だが、今回『風太郎不戦日記(1)』(山田風太郎:原作、勝田文:漫画/講談社)として漫画化されることになった。

 本作は昭和20年の1月1日から始まる。上京して目黒の高須家に下宿していた山田青年は、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)の1年生であった。しかしそれは医者の家に生まれたからそうしただけであり、本当に医者を志したわけでもなかったのだ。さらに山田は前年に召集令状を受け取ったが、肋膜炎を患っていたため軍に入隊することができなかった。そういった本意とは違う自分の身の振り方は、山田の心に引け目というか、影のようなものを落としていたかもしれない。かつて私のご先祖様も結核かなにかで軍に入隊できず、失意のうちに若くして亡くなったと聞いたことがある。「お国のために」働けないことは、当時の日本人にとっては相当な恥であったのだろう。

 それでも山田は学校に通い、日に日に悪くなる食糧配給に嘆き、国難を救う手立てを思案しては煩悶する。そうした中、彼は新宿駅で空襲警報に遭遇し、B29が墜落していく現場を目撃。戦争という現実を間近で再認識しつつも、一学年の課程修了とともに訪れる進級試験に山田の頭は一杯になるのだ。そして空襲時は無試験合格ということを聞かされるや、ついつい「B公(B29)」の襲来を期待してしまう。果たして試験当日、鳴り響く空襲警報に思わず快哉を叫ぶ山田青年。隣近所に聞かれたら「非国民」の謗りを受けかねないだけに、高須家の奥サマがお怒りになるのも当然なのである。……ちなみにこの日の試験はめでたく無試験合格になったという。ヨカッタネ。

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 ところで、タイトルにある「不戦」の文字から「不戦」イコール「反戦」と捉える向きがあるかもしれない。しかし山田は、決して戦争反対を叫んでいるわけではない。むしろ「敵百万 寄せなば寄せ われ戦わん」と書き記しているくらいに、米軍に対し怒りを漲らせている。しかし徴兵されなかったことに端を発し、現状に対しての己の無力さに忸怩たる思いを募らせていた。そんな中で3月10日の深夜、あの「東京大空襲」が発生する。

 山田はその光景を「爆撃は下町なるに、目黒にて新聞が読めるほどなり」と記すほど壮絶なものであった。浅草の観音や上野の松坂屋も焼け、死者や行方不明者は10万人以上といわれる。現地の惨状を目の当たりにし、「──こうまでしたか、奴ら!」と憎しみを露わにする山田。しかし憎しみは湧いても、結局どうにもならないことを思い知らされる。そんなとき、被災した女のこぼした「また…きっといいこともあるよ…」という言葉を、こんな状況であっても希望を求めて生きる、人間なるものの「人間の賛歌」として聞くのであった。

 戦時下の日本を山田は「かくて日本に不機嫌と不親切と不平とイヤミ充満す。みずから怒り、みずから悲しみつつ、国民はみずから如何ともする能わず。人間は、実に馬鹿なり」と評している。この言葉、私にはコロナ禍に翻弄される日本の現状にも当てはまるのではないかと感じてしまう。山田は2001年にこの世を去っているが、もし存命であったなら現在の日本を見て、やはり「人間は、実に馬鹿なり」と思うのであろうか──。

文=木谷誠