他者の「死」を物語化することの暴力性。表現の欺瞞と記憶を分有する可能性を考える【読書日記21冊目】
公開日:2020/6/8
2020年5月某日
恋愛リアリティショーに出演していた女性が亡くなった。
人気番組だったこともあり、放送時からTwitterのタイムラインでお名前をよく拝見していたが、彼女が亡くなった直後からその死を悼み、誹謗中傷をした人間への憎悪が濁流のように流れてくる。
他人の感情は他人のものだから、それ自体に意見などしようがない。ただ、ひとつ気になったことは、亡くなった女性のSNSの投稿やいいね欄を遡って得た情報を基にした「憶測」をさも事実のように物語っている人が多くいたことだ。
「こんな想いで死んだのではないか」
「きっとすごくつらかったはずだ」
そう言っている人はとても心のやさしい人なのだと思う。日頃から、他者の心の行間を読みながら接することのできる繊細な心の持ち主なのかもしれない。
けれど、どうして彼女が亡くなったのかなんて彼女にしかわからない。言葉や行動に表していない「真実」があったかもしれない。二度と話すことのできない相手の気持ちを憶測して好き勝手言うのは暴力にあたるのではないか。……と、ここまで書いてしまっている私もすでに加担しているも同然なのだけれど。
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全く違うケース―オウム真理教の麻原彰晃の死刑執行直後―にも似たようなことを感じたことがある。Twitterで流れてくる、麻原の不幸な生い立ちの情報を継ぎ接いで創作された、オウム真理教を立ち上げるまでの「物語」に多くの人が沸き、怒り、同情していた。
それは素人目に見ても作り物といって差し支えないほどのこじつけで、多くの人が興味を惹かれる背景には「真実を知りたい」だとか「納得したい」という欲望が渦巻いている。「理解できないもの」は怖いからなんとか理解したい、という気持ちはわかる。しかし、真実など存在するのだろうか。仮に真実が存在するとして、私たちはそれを「正しく」読み解くことができるのだろうか。
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こんなこともあった。
ある人にインタビューさせてもらって書いた原稿を校正確認に出したとき、本人から「こんな文章は暴力だ」「読んでいて気分が悪くなった」「あんなものは事実ではなく創作だ」「不信感でいっぱいだ」などという言葉が連ねられた長文のメッセージが届き、原稿をお蔵入りせざるを得ないこともあった。
その方とは信頼関係ができていたと思っていたし、自分としては心をこめて書いたつもりだったからとてもショックだった。以降、他の原稿を書くのも躊躇われた。しかし、それはあくまで私個人の気持ちであり、インタビュイーを傷つけてしまったことには変わりない。
誰かの記憶を物語ることは難しい。どこまで触れて、どこまで言葉にしていいのだろうということは職業柄もあり、何年経っても躊躇する。
そんな思いを恐らくは常に抱えていた時分、『記憶/物語』(岡真理/岩波書店)を手に取ったのも必然だったのかもしれない。
第三世界のフェミニズムや性にまつわる暴力を主軸に執筆されている岡真理さんの『記憶/物語』は、他者の記憶を物語化する際の暴力と、分有する可能性について追求した本だ。
本書の九分九厘は、本や映画などを例に挙げながら、他者の記憶を物語にすることの暴力について記されている。
全体を通じて何度も引用されるのは、バルザックの短編小説『アデュー』だ。主人公のフィリップ・ドゥ=スュシー少佐が狂気を患ったひとりの女性に遭遇するところから物語は始まる。その女性はかつて少佐が愛した恋人、ステファニー・ドゥ=ヴァンディエール伯爵夫人だった。
ステファニーはフィリップを追ってロシアまでやってきたが、敗退を重ねてロシア軍に包囲されたため、フィリップによって夫であるヴァンディエール伯爵とともに船に乗せられる。そして、フィリップ自身は岸に留まることを選択する。その際に、ステファニーがフィリップに向かって叫んだ言葉が「アデュー」だった。
その後に判明するのだが、夫・ヴァンディエール伯爵は船から落ち、ステファニーの目の前で流氷の鋭い刃で首を切って死に、ステファニーも敵に捕らえられ、その後2年もの間、兵士たちの慰みものとされていたのだった。
そうして正気を失い、自分のことも認識できなくなった獣同然の女がステファニーだと気づいたフィリップは、かつて社交界の花であった彼女の記憶を取り戻そうとする。そして、彼はふたりが別れた当時の情景を再現するために、壮大なセットを用意し、迫りくるロシア兵を模して軍服を着せた農民たちに叫びをあげさせた。再現された過去の情景に身を置いたステファニーはかつての記憶を取り戻し、「アデュー」と叫んで、そのまま息を引き取った。
この物語が示唆しているのは、まさにフィリップの身勝手な欲望による暴力だ。フィリップの目論見通り、ステファニーはかつての「女」である自分を取り戻したが、それは男たちの欲望を一挙に引き受けてきた記憶と不可分であり、徹底した忘却が彼女の生命をかろうじて維持させてきた。それなのに、無理に記憶を蘇らせられた結果、命を落としてしまう。これはすなわち、言葉にすることで命がこと切れてしまうほどの暴力を、他者と分有することの難しさを物語っているとも言えよう。
『アデュー』の例は、架空の物語であるうえ設定も現代とはかけ離れているため、距離を置き安心して読めるが、実在の話でより身近なものとなるとそうもいかない。
「暴力を語らせること」の暴力については、慰安婦問題について書かれた章でも説かれている。同書内で引用された大越愛子さんによる『女性・人権・戦争』の中では、強姦や「慰安婦」生活による後遺症で身体がボロボロになった元「慰安婦」がひとこと、「私は女の喜びを知らない」とうめくように言ったことに対し、否定論者が「商取引」という言葉を使い、「売春婦」であったと蔑視する行為が取り上げられる。
引用元著者の大越さんは「言葉だけで,戦時での強姦,性的奴隷制度を告発する彼女の人間的権利を奪い去ろうとする」と否定論者を糾弾し、本書の著者である岡さんもこれに同調する。本書を読んだ人の多くも同じように、否定論者の論に抗おうとするだろう。
一方で、こうした〈出来事〉そのものを否定する論者たちによる暴力を告発しようとするとき、暴力を告発する側も暴力に加担しているのではないかと著者は自らにナイフを突きつける。
〈出来事〉の真実を証明するものを提示して反抗しようとするときには、〈出来事〉を体験した当事者による証言が必要になる。つまり、傷だらけの身体からようやく絞り出された言葉という以上の証言を引き出さなければならない。
その意味で、自分たちも暴力に加担しているのであり、否定論者の暴力を手放しで糾弾することは、否定論者に対抗する術を持たない自分自身への非力さと、自分たちが拷問に加担していることから目を背けることになるのではないかとまで踏み込んでいる。「被害者」とされる人にマイクを向け、証言を引き出して世の中を変えようとする「社会正義」の一翼を担いがちな一メディア人としてはペンを折りたくなるような厳しい言説だ。
また、物語によって〈出来事〉を漂白してしまうことの危険性についての例として、スティーヴン・スピルバーグ監督による戦争映画『プライベート・ライアン』や、ホロコーストの恐ろしさを描いた『シンドラーのリスト』を取り上げ、痛烈に批判している。
著者が批判しているのは、スピルバーグ監督の作品に共通して感じられる「リアリティ」についてだ。炸裂する爆弾や四肢をもぎ取られる兵士など、スピルバーグ監督が描く戦闘シーンには「まるで本当のような」リアルさを感じるのを禁じ得ない。
しかし、戦地に赴いてそれらを目の当たりにした人のように、映画を観た人がトラウマを抱えることはない。どんなに「リアル」であっても、それはフェイクの域を出ないのだ。にも拘わらず、それらを確からしい真実として提示しようとする欲望は、「<出来事>の余剰,「他者」の存在の否認と結びついている」と著者は綴る。
『プライベート・ライアン』では、国家の不条理な命令のもとに行われていた戦地での殺戮やそれに伴う不条理な死が、ライアン二等兵ひとりを救うという大義名分のもとに「意味のある死」として昇華される。
『シンドラーのリスト』でも、シンドラーのリストに名前が記載されることにより絶滅収容所行きを免れた人たちが、犠牲者たちの墓地で花をささげるシーンで幕を閉じる。その光景には「幸福な感覚さえ漂っていた」と著者は指摘する。
このふたつの作品で共通して否認されているのは、「人が不条理な死を死ぬという<出来事>であり、主体的な選択が根源的に否定される体験であるという事実」である。つまり、スピルバーグ監督の映画は「人が不条理な死を死ぬことはない」という物語を以て「人が不条理な死を死ぬことがあった現実」を否定し、さらに水増しされた「リアルさ」で上塗りしている点に罪があると糾弾しているのだ。
“むしろ作品は,観客を, <出来事>の「真実を領有する主体とする.「ヒューマニズム」と「エンターテイメント」の見事な融合.だが,それは,誰のどのような欲望に奉仕しているのだろう”
このように、他者の記憶を扱うことの危険性や物語化することの暴力が、文学作品や映画、歴史的な出来事を例に挙げながら、眩暈がするほど指摘され続ける。曲がりなりにも人の記憶を預かり、物語を編む身としては絶望の連続で、本を読み進めることはおろか、目下の原稿に向き合うことすら躊躇させられるほどだった。
本書の最後の数ページでは、他者の記憶を分有することの可能性について、著者の体験を例に挙げて記されている。
著者が「ユダヤ人」をテーマにした特集の取材で、ルティという10年来の友人を取材したときの話だ。
出来上がった原稿では「こう質問していいかしら,ルティさんにとって祖国ってどこ?」という質問に対し、ルティは「さぁ……,ねぇ……,ポーランドかな」と答えている。これだけ見れば注目するに値しない「普通」のやりとりに見えるだろう。
しかしながら、実際は深い沈黙とともに、ルティの目には涙が湧きあがっていたという。著者は、その沈黙という〈出来事〉を共有し、沈黙の中に「真実」が指し示されていると確信していた。けれど、それについて深掘りして聞くことはなかった。「真実」について話を聞きに行ったのにも拘わらず、である。その瞬間のことについて、著者はこう分析する。
“<出来事>に対峙するのを避けようと,意味のない言葉をわたしは重ねていたのはしかし,実は,わたしが<出来事>そのものに疑いようもなく巻き込まれていたからだとは言えないだろうか.だとすれば,わたしもまた,<出来事>を体験していたのだ.自分では訳もわからずに.わたしたちはお互い,うろたえつつ,実はちぐはぐな,脱臼した会話を交わしていたのだ”
自分でも「訳のわからない」状態は、その訳のわからなさゆえに文章のうえで表されることはない。しかし、その語り得なさこそを共有することが、他者の記憶を分有することではないかと著者は語る。
“「難民」――<出来事>をナショナルな歴史/物語として,決して領有しない者たち,人間が<出来事>を領有するのではなく,<出来事>が人間を領有する,そのような<出来事>を生きる者たち,<出来事>の記憶を「物語」として領有するのではなく,<出来事>として分有するのは,この,難民的生を生きる者たちだけだ.<出来事>の記憶の分有の可能性とは,私たちが「難民」に生成すること,難民的生を生きることのなかにある”
可能性という言葉には一般的に、未来に開かれたポジティブなニュアンスが含まれる。しかしながら、ここで語られる「可能性」は限りなく望みがない。言葉が何ひとつ役に立たない。ただ、混乱の中にともに身を置くことだけにしか、他者の記憶の分有の可能性が認められない。そして、ただ混乱の中にともに身を置くことは途方もなく難しい。
そのうえ、物書きは言葉によって表さなければいけない。書くことを決めたなら、理解などできないと腹を括りながら、書かなければいけない。
「真実」を知りたいという欲望や「理解した」ような気になって物語を編むことの欺瞞を奥歯で噛み締めながら、少しでも確からしいものに向かって言葉に表すほかない。
他者について何かを語るとき、自分に常に問い続けたい。
その物語に明らかな欺瞞はないか。
私は「難民」になる覚悟はあるか。
文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura
【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka