ザビエルも驚いた「おっさんずLOVE」だらけの日本史! 白河法皇も、武田信玄も、伊達政宗も当たり前に嗜んでいた!
公開日:2020/6/10
フランシスコ・ザビエルが初めて日本にやってきたとき、そこらじゅうで男色が行われているので激怒した。みたいなことを、たまたま海外で手にした『The Love of the Samurai』(Heretic Books)という英語の本で読んだことがある。副題は『1000年にわたる男色の日本史』で、ひどく興味をそそられたのだが、英語で全部は読みきれないので、なんとなく興味を惹かれたままになっていた。ところが、気になっていたその内容を端的に、かつおもしろく紹介してくれる本が時を経て手元にやってきた。それが『おっさんずLOVEだらけの日本史』(監修:山本博文/双葉社)である。
本書いわく〈キリスト教の布教活動に乗り出したザビエルは、いきなり衝撃的な事実に打ちのめされ〉て、「僧侶と、寺に教育のために預けられている少年たちは、平然とイケないコトをしている」といった当時の様子を書き残したそう。驚くべきは、宣教師が「忌まわしい罪」としたことではなくて、事態を深刻なものとしてとらえるほど、日本では男色が当たり前で隠すものでもなかった、ということ。稚児や陰間という存在は知っていたが、本書で「実は男色家として知られていました」と紹介されるのが、あまりに有名な人々であるのも驚かされる。
美少年たちを女装させてはべらせていた白河法皇。25歳のとき、10代の少年に浮気(相手はやはり少年)の言い訳を書き連ねた手紙を送っていた武田信玄。少年と契りを交わすたび、その証として腕や股などを傷つけていた記録の残る伊達政宗。12歳の世阿弥に一目ぼれした17歳の足利義満……。ちなみに義満は「衆道」のパイオニアでもあったそう。つまり、“武士道に通じる精神的なつながりに重きをおいた関係”としての男色である。女性との関係にくらべて高貴で崇高なものとして男色がとらえられるようになったのは、師弟や主従の関係における忠誠心や尊敬がベースになっているから。その結びつきをより強固にし、証明するためのものだから、一線を越えることに抵抗はなく、むしろ積極的であったのだろう。
もちろん今より身分の区別が厳しかった時代において、男色が美しいものだけだったはずはなく、権力が絡めば血なまぐさい話にも発展するし、妊娠することのない陰間たちへの扱いは、同性同士だからこそひどいこともあっただろう。そのあたりの現実も、当時の陰間たちの事情について書かれた章にあり、ただおもしろおかしく男色を紹介しているわけではないことを記しておきたい。歌舞伎が誕生した経緯など、歴史についてもポイントをおさえてしっかり紹介してくれているので、読みごたえがある。
とはいえ、性愛が絡めばどんなに偉くてもただの人なのだな……と感じさせる人間くさい逸話の数々がおもしろいのは確かで、個人的には、敵対する2人の武将が合戦のさなかにラブレターを送りあい意気投合してしまった、というエピソードが印象的だった。『東海道中膝栗毛』の弥次さん・喜多さんも駆け落ちカップルだというのも驚きだし、庶民の究極の夢は「陰間と遊女と3Pすること」というのも、なんだか味わい深い。そんな、大衆文化としての男色の歴史を、どうぞ本書を通じてひもといてみてほしい。
文=立花もも