その謙虚さは女の枷になる。フランスのベストセラー作家の話題作がついに日本初上陸!
公開日:2020/6/13
叶えられなかった夢を思うときに過る、砂を噛むような思い。自分に能力がなかったから、努力が足りなかったから――。自分にそう言い聞かせ、人は人生に折り合いをつけていく。けれどもし、そのチャンスが誰かの手で、ひそかに歪められていたとしたら……。
「本当はお前は合格していたんだよ。だけど、そのことを知らずにいたんだ」
『縫いながら、紡ぎながら』(アニエス・マルタン・リュガン:著、徳山素子:訳/TAC出版)の主人公・イリスが子供時代から目指していたクチュリエ(服飾職人)。だが保守的な考えの両親は、服飾学校の合格通知を勝手に焼き捨てていたのだった。さらにそれはもう10年近く前の出来事。31歳になったイリスは、銀行に就職し、医師である夫との安定した人生を歩んでいる。でも――。そこから彼女の真実のストーリーが始まっていく。
原題には「幸せを自分の手の中から紡ぎ出す」という意味がある本作は、自分と向き合いながら服を縫い、歩むべき道を自身で選ぶことができるようになるまでの女性の物語だ。
著者・アニエス・マルタン・リュガンは、新刊が出るたび、大きな広告がメトロ駅の構内を飾るようなフランスの人気小説家。児童福祉のための臨床心理士として働いていた彼女は、2012年に初めての小説をAmazonの電子書籍プラットフォーム、キンドル上で自費出版、その作品が口コミで話題となり書籍化、たちまち30を超える言語に翻訳されるというミラクルなストーリーも持つ。現在に至るまで、7作の小説で累計300万部を売り上げた彼女の作品のなかから、初の邦訳版として刊行されたのが、選ばれた顧客だけに最高のファッションを生み出すパリのプライベートサロンを舞台にした本作だ。
服飾学校養成コースの試験にパスした主人公・イリスは、パリまで列車で3時間かかる田舎の町から、一歩を踏み出していく。不機嫌極まりない夫を説き伏せ、10歳以上も若い養成コースの個性的なクラスメイトたちにたじろぎながら。だが天性のセンスと、これまで服作りの手を止めてこなかったイリスのデザインと技術は、悪魔的なほど魅力に溢れた、エレガンスな60代女性、服飾学校とプライベートサロンの主・マルトの目に留まることになる。
「病的なまでの謙虚さね。正直イライラするわ!」
夢のようなしつらえのアトリエと重要な仕事を次々と任されていく展開に、喜びよりも戸惑いを感じるイリスをたしなめ、マルトは厳格に指導していく。仕事面はもちろん、一流サロンのデザイナーにふさわしいワードローブを買い与え、低いヒールの靴を履くことを禁じ、パリの社交界のパーティーに連れ出しては磨きあげていく。だがイリスの自己肯定感の低さはなかなか消え去っていかない。
「(マルトは)きみとは違う世界の人だ。(中略)研修期間が過ぎればきみのことなんてすぐに忘れてしまうんだよ」と夫から言い聞かされ、その言葉に頷いてしまうイリス。夫はマルトと会ったこともないし、イリスの仕事ぶりも見ていない、そもそも彼女自身の夢に関心なんかないのに。
イリスが過ごしていくパリの日々は、描写されるアイテムや風景など、まるで映画を観ているよう。そこに現れてくるのが、マルトの亡き夫の後継者でプレイボーイのガブリエル。彼がイリスに近づいてくることを極端に嫌うマルトの視線から隠れたところで言葉を交わしながら、次第に惹かれ合っていく2人だったが――。
順風満帆に行っているようで、次々と訪れる試練、そのなかでイリスが気付いていくのは、本当にしたいことを自分の手で選びとることができないこと。育ってきた保守的な家庭、“可愛い奥さん”でいることを彼女に強いてきた夫……いつしかイリスの周りに巡らされていた、たくさんの見えない柵のなかで悩み続ける彼女の姿に、自分を重ねて読む人もきっと多いだろう。
後半、展開は加速度を増し、驚きの事実が次々と発覚していく。登場人物たちも、読む側も感情が溢れ出す。そのなかをイリスはどう行動していくのか。そして自分の手で、何を掴みとっていくのか。ページを閉じたあとには、自分のなかを心地よい風が吹いているに違いない。
文=河村道子