パンデミックの歴史から読み解くコロナ収束の見通し。感染拡大より恐ろしいシナリオは…?
公開日:2020/6/14
2019年末に発生した新型コロナは、年をまたいでパンデミック(世界的大流行)を引き起こし、2020年6月現在もその収束は見えていない。パンデミックとは、ギリシャ語の「パン(すべての)」と「デモス(人々)」を語源としており、文字通り誰であっても逃れられない災厄なのだ。
だが、これまでも人類はたびたびパンデミックを経験し、それを乗り越えてきた。そして、ときにパンデミックは歴史を大きく動かす原動力にもなった。そんな歴史的なパンデミックの事例を数多く紹介するのが、『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』(島崎晋/青春出版社)だ。著者には、『ホモ・サピエンスが日本人になるまでの5つの選択』や『ざんねんな日本史』など歴史に関する書籍が多い。
本書には、約3000年前のエジプトでの天然痘の流行から、20世紀初頭のスペイン風邪の世界的流行まで、さまざまなパンデミックが紹介されている。
たとえば、1世紀末から2世紀後期までのローマ帝国は五賢帝の時代であり、繁栄の頂点にあった。だが、その五賢帝の最後の皇帝であるマルクス・アウレリウスの治世下だった西暦166年から10年間ほどローマ全土で天然痘が猛威を振るい、帝国の本拠地であったイタリア半島では3人に1人が死亡したという。これが、ローマ帝国が崩壊する一因になったともいわれているのだ。
もちろん、島国の日本もパンデミックから無縁だったわけではない。もっとも古いパンデミックの記録は、第10代・崇神天皇の時代のことだ。日本書紀には、このとき「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどだった」と記されている。具体的な症状の記述がないため、どんな感染症だったのかは不明だが、2人に1人が死亡したというのだから、かなり高い致死率である。これは、3世紀末から4世紀ごろの出来事と考えられている。
また、8世紀の聖武天皇の時代には天然痘が大流行した。これが原因で、権勢を誇っていた藤原不比等の4人の息子は次々と死亡し、最終的には当時の日本の総人口の25~35%が死亡したと推察されている。
この惨状に対して、朝廷は国名を「大倭国」から「大養徳国」へと変更した。ようするに、縁起のいい漢字に変えることで、ゲンを担いで災厄から逃れようとしたのだ。さらに仏教にもすがり、これが東大寺や奈良の大仏の建立につながっていく。ちなみに、このときの天然痘は当時外国との窓口だった大宰府でまず発生したと『続日本記』に記されており、おそらく唐か新羅から入ってきたものと考えられている。
このように人類は幾度となくパンデミックに襲われてきた。本書を読めば、この災厄が珍しい出来事でないことがよくわかる。そして、歴史的に見れば人類がみずからの力で完全に根絶できた感染症は天然痘だけであり、基本的には集団が免疫を持つようになるか、自然終息を待つしか解決方法はないが、それでも人類が絶滅することはなかった。
著者もあとがきで書いているように、ある意味、感染症よりもおそろしいのがパンデミックによって起こるパニックであり、他者への不寛容である。中世ヨーロッパでペストが流行したときはユダヤ人の大量虐殺が起き、今回のコロナ禍でも初期には世界各地でアジア人差別が頻発した。また日本国内でも感染者に対する中傷が相次ぎ、「自粛警察」なるものも横行している。
これらの不寛容さの根底にあるものは、自分や自分の家族が感染症に罹ることへの恐怖だろう。多くの人が抱いてしまう自然な感情なのかもしれないが、そんなときこそ太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」という言葉を、思い出す必要があるだろう。
【あわせて読みたいもう1冊!】
『感染症と文明――共生への道』(山本太郎/岩波書店)は、医師で感染症の専門家が感染症と人類の関係を文明の発祥にさかのぼって冷静に考察する1冊。コロナ騒ぎで不安になっている人も、これを読むと少しは気分が落ち着くかもしれない。感染症の現場で長年対策に従事してきた著者による「感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない」という言葉は、非常に示唆に富んでいる。
文=奈落一騎/バーネット