「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」親の老いを通して考える、家族の絆の終わらせ方
公開日:2020/7/9
馬が合わないと思っていても、意図的に距離を保っていても、自分の親が老いて命の終わりを迎える間際には「家族の絆」という厄介な呪縛が絡みついてくる。できないことが増えて子どもに還っていく親に対して、すでに大人になった子はどう接し、家族の終わりをどう迎えればいいのか――。『家族じまい』(桜木紫乃/集英社)は、避けられない家族の老いについて深く考えさせられる1冊だ。
親の老いを通して見えた「家族の終わらせ方」
物語の発端は、智代の母・サトミが認知症になってしまったこと。妹の乃理から連絡を受けた智代は、長年連絡を絶ってきた両親と今さらどう関わればいいのか悩む。
対して、妹・乃理は「良い娘」であろうと努力。父親に2世帯住宅で一緒に暮らさないかと提案する。しかし、ローンの心配がないマイホームを手に入れることで将来の金銭的不安から逃れたいと目論む自分の本心に苦しみ、アルコールに依存しはじめる。
一方、これまで家庭を蔑ろにしてきた父・猛夫は娘たちに頼らず妻・サトミの面倒をひとりでみようとするが、限界に。日常生活がままならなくなっていくサトミに手をあげてしまうが、その叩かれたことさえも忘れてしまう妻を見て、心苦しくなる。状況に耐えかね、夫婦最期の船旅に出かけた猛夫は、予想外の行動を取ってしまうのだが――。
家族の絆を考え直す新しいきっかけは?
物語は、視点となる人物を変えながら徐々に進んでいく。作中には智代の義弟の妻やサトミの姉も登場する。年齢も立場もさまざまな人々がそれぞれ自身の老いを感じながら、誰かの老いを考えるのだ。
年を重ねると、背負わねばならないものや、考えなければならない憂鬱な未来が、自ずと肩にのしかかってくる。「家族」という言葉の意味を改めて深く考え直し、義理の親や疎遠になっているきょうだいの老いについても気にかけなければならない。しかし、「誰かの老い」という蓋を開けると、さまざまな問題が出てくるものだ。例えば、乃理のようにいい娘でいようとするあまり苦しくなったり、智代のように親との溝の埋め方が分からず困惑してしまったりすることもあるだろう。
老いていかねばならないほうも苦しむ。自分自身の変化に戸惑う中で、最期をどう迎えるのか選択を迫られるからだ。それぞれの辛さを抱えた私たちはどう老いを受けいれ、家族と向き合えばいいのだろうか。
本作は、その問いにひとつの答えをくれる。作中には、この世を“蛇腹”に喩えたこんな一節がある。
“ふたりを単位にして始まった家族は、子供を産んで巣立ちを迎え、またふたりに戻る。そして、最後はひとりになって記憶も散り、家族としての役割を終える。人の世は伸びては縮む蛇腹のようだ。”
異なる2人の人間が築く「家族」の根底には愛があるが、変わらない愛を抱え続け、家族関係をずっと維持していくのは難しい。家族史の中で親に対して恨みを持つこともあれば、きょうだいとの間に埋めがたい溝ができてしまうこともあるからだ。けれど、「老い」によってそうしたわだかまりが溶け、もう一度家族に戻れることもあるのかもしれない。そんなことを、作中に登場するサトミの姉・登美子の台詞を目にして思った。
“若い頃はサトミもあの気性だし、張り合うところもあってやりづらい思いもしたけど、お互い棺桶に両脚突っ込むような年になったら、そんなことどうでも良くなっちゃうもんだねえ。”
登美子は食事をしたことも忘れてしまうサトミに、こんな言葉もかける。
“だいじょうぶだから。安心して忘れなさい。わたしが代わりに覚えておいてあげるから”
終わりの見える家族関係は儚くてちょっと歪だ。けれど、そこには数十年前とは違い、呪縛ではない絆が育まれることもあるのかもしれない。
今はまだ見て見ぬふりをして遠ざけている、家族の老いという問題。けれど、向き合うべき日は必ずくる。その日のために今から家族をどう終わらせるか考えたい。自然にやってくる「終(しま)い」に立ち会うのではなく、過去を清算して家族史を締めくくれるような自発的な「仕舞(しま)い」をしたいと思った。
好きや嫌いという言葉だけでは片づけられない「家族」との関係を見つめ直したくなる本作は、終活本としても手に取ってみてほしい。
文=古川諭香
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