元女装家が<理想の美少女>と出会ったら。似合わない服を着るのはよくないこと? 切ない欲望と交流を描く

文芸・カルチャー

更新日:2022/12/26

ファルセットの時間
『ファルセットの時間』(坂上秋成/筑摩書房)

 上京したばかりの頃、人の多さ以外に「さすが、東京」と感心したことがある。

 遊びに出かけた新宿で見かけた、ふりふりとしたピンク色のワンピースを着た男性。人混みのなかでも、パッと目に飛び込んでくるインパクトがあった。しかし女装をしている本人も、まわりも、何食わぬ顔で歩いているので「東京は違うなあ」と思ったのだ。

『ファルセットの時間』(坂上秋成/筑摩書房)の舞台もまた、東京である。本作はかつて女装をしていた34歳の竹村が、16歳の“美少女”ユヅキと出会い、自分のなかに眠る<クィアな欲望>と向き合うまでの物語である。

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 初めて女装家を見た時の衝撃を思い出して、なんだか違った世界が覗けそうだと興味本意で読み始めた私からすると、本作は驚くほど静かで、日常的だった。

 ユヅキは街を歩いていても女装とは気づかれないくらい、可愛らしい少年だ。端的にいって、恵まれた容姿をしている。一方で、竹村は年齢を重ねるにつれ、体毛が濃くなり、脂肪がつきやすくなった自分の体をどこか嫌っていた。竹村はユヅキと出会うまで、8年ほど女装の世界から離れている。

 竹村と出会ったばかりの頃のユヅキは、まだ化粧が下手で、ひとりでこっそり女装をして出かける程度の楽しみしか知らなかった。竹村は、そんなユヅキに自分が培った知識や女装家たちとの繋がりを<与えて>、ユヅキを<育てていく>ことに悦びを覚えていく。

 しかし、そもそもユヅキは美しい容姿に加え、まわりから可愛がられる性格をしている。なにより、伸びのあるファルセットを響かせるユヅキの歌声は、まわりを魅了する美しさだ。

 竹村が手をかけなくても、ユヅキは女装コミュニティのなかでどんどん居場所を広げていく。竹村のなかで、次第に黒い感情が渦巻いていく――。

 彼らは女装をするが、自分の性別に違和感があるわけでも、同性が好きというわけでもない。なかには体ごと女性になりたいという人もいるが、少なくとも竹村はスカートやヒールなど自分の好きな服を着たい、という欲望があるだけだ。

「別に好きなら、それでいいじゃない」と言うのは簡単である。好きな服を着ることは、なにも悪いことじゃない。しかし作中で、そんな何気ない願いを切り裂く言葉が出てくる。

だって、それぞれの人にはそれぞれの似合う服があるでしょう。着るべき服って言ってもいいのかもしれない。それを間違えてる人は、なんかよくないんじゃないかなって思うんです。

 つまらない考え方だと一蹴することはできる。しかしこれを世間の空気のなかに感じながら、なんとなく呑みこんで生きているのが、女装家たちではないだろうか。

 女装家の多くが、ユヅキのように美しいわけではない。街中で気づかれず、好きな洋服を楽しめるわけでもない。そして美しいユヅキでさえ、女装をからかわれ、傷つくことはある。今後、成長して女装が似合わない体型に変わっていくかもしれない。

 好きな服を着たい。ただそれだけなのに、彼らが好きな服を着て過ごすハードルの高さみたいなものに、改めて驚いた。わが身を振り返り、…少し怖くなった。彼らにだけ、厳しすぎやしないだろうか。

 彼らに優しい世界がやってくればいいね、と、キレイゴトをいう作品ではない。誰だって生きていれば、いくらでも理不尽なことはある。それらに立ち向かっては、心が削られていく。

 本当の強さとは、理不尽な物事を静かに受け流していけることなのかもしれない、と本作を読んで思った。まわりの目はどうにもならなくても、自分に素直に生きていく。竹村やユヅキの等身大の姿に、心打たれる作品である。

文=ひがしあや