貧富の差が広がるばかり……。資本主義の理不尽に怒りを感じたらコレを読もう!

文芸・カルチャー

更新日:2020/8/15

アロハで猟師、はじめました
『アロハで猟師、はじめました』(近藤康太郎/河出書房新社)

 世界の超富裕層26人が、世界人口のうち所得が低い半数にあたる38億人の総資産と同じ富を握っている――。昨年このニュースを目にしたとき、資本主義の理不尽に憤りを感じた。さらに今年に入り、新型コロナウィルスが世界経済を直撃。日本でも失業、貧困問題が深刻化している。

 経済成長ありきの社会システムでは、これからも大多数の人間が労働の対価として得た安い賃金で生き延びるしかない。しかも、いつまで仕事があるかわからない……。そんな厳しい現実に新たな視点を与えてくれる痛快な本と出会った。

『アロハで猟師、はじめました』(近藤康太郎/河出書房新社)というタイトルだけ見ると、狩猟体験記のようだが、それだけにとどまらない。本書はむしろ、「生きるとは?」「働くとは?」「人間関係とは?」といった普遍的テーマに体当たりで挑み、血の通った言葉で編まれたノンフィクション。経済学、哲学、文学、人類学などをベースに著者が“実体験によって思考”した教養の書とも言える。

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会社を辞めても飢え死にしない、もうひとつの生き方

 アロハシャツがトレードマークの著者は、生まれも育ちも渋谷センター街で、都会でしか働いたことがなかった朝日新聞の名物記者だ。作家でもある著者は出版不況のなか、「生きるために、書くのではない。書くために、生きる」と覚悟を決める。そして、いつ会社を辞めても飢え死にしないために、長崎県諫早市に赴任して米作りをはじめたのが2014年。本書は、その顛末を綴った『おいしい資本主義』の続編で、大分県日田支局長になった後の狩猟生活までが描かれる。

 獣害に悩む集落の農家を助けるため、一念奮起した著者は、2016年秋に猟師デビュー。しかし、「初心者はまず鳥撃ちから」と教えられても鴨一羽見つけられず、いきなり薮の中の底なし沼にはまって死にかける。ところが運良く、ブラックジョーク好きのハンター「ブラック師匠」と出会い、はじめて撃った銃弾で鴨を落としてから、全身全霊で獲物を追い始めるのだ。それからの「猟には、獲物以上の獲物(もの)がある」ことを伝える著者の言葉がどれもキレッキレで、読んでいて目が覚めるような思いがするのだ。

動物は「死」を知らない。人間だけが「死」を獲得した。「死」を、発見した。
だからこそ、生きる意味、自分が存在する意義を、人間は問い続けてきた。(中略)だが、鴨を見ていると、そういう実存を問う自分がこざかしく思えてもくる。小さく見える。自分が生きる意味など知ったことではない。問うたこともない。とにかく、死から逃げるんだ。逃げて逃げて、逃げまくれ。生きることを、あきらめるな。

 物々交換が当たり前の田舎暮らしに慣れ、商品売買に必要なカネへの欲望でふくれあがった市場経済の異常さに気づいたときには、「市場の歴史は長い人類史でせいぜい300年くらいしか機能していないシステムだ」と喝破し、次のように述べる。

 鴨を、自分で獲って、食べて、おいしくいただく。それだけで〈使用価値〉がある。しかし、こうやって手間ひまをかけ、真空パックでいかにも商品ライクな“化粧”をほどこすと、鴨肉が〈交換価値〉を帯びるようになる。「使用価値は同時に交換価値の素材的な担い手」(カール・マルクス『資本論』)となるのである。

カネに頼らない交換活動で、本物の人間関係が広がっていく

 昔は、虫のお墓をつくるほど多感な子どもだった著者が、50歳を過ぎて、罠をかけて猪を獲り、鉄砲で撃った鹿をバラバラにさばけるようになっていく。血まみれの鹿の頭を両腕に抱きしめながら、本人が自分に一番びっくりしている様子には思わず吹きだしてしまう。都会育ちで粋がっている「とっぽい野郎」だった男が、命がけで獲物たちと向き合う姿は、人間の原点に立ち返らんとするかのような気迫と凄みさえ感じる。

 一方で著者は、平然とした顔で生きている私たちが、殺生をしながら生きている現実も直視する。たとえば、生田武志『いのちへの礼儀』を読み、身動きできない狭い畜舎で飼い殺される食用豚や、生きたままシュレッダー状の機械で殺処分されるオス鶏の雛の残酷な運命を知ったときは、言葉を失う。

他者の命を奪って生きる。悲しく怖ろしい生命の倫理として、わたしはわたしで「ある」だけでは不十分だ。わたしはわたしに「なる」のでなければ、かつてのかつても、いまのいまも、大量殺戮の連続たる毎日の、申し訳が立たない。
わたしは、わたしになると、いま、決意する。
生きるために食っているのではない。食うならば生きる。
殺す以上は、生きるのだ。
生き延びろ、そして、尊く、生きろ。

 本業の合間にはじめた米作りと狩猟生活は、今や著者の人生のベースとなり、資本主義から半分「ばっくれる」生き方を選んで楽になったと断言する。獲物の肉を人に贈り、労力や作物を交換する活動を通して、お金や会社と関係ない本物の人間関係も広がっていった。「都会もん」にやさしい地元民とのやりとりもユーモラスに描かれ、孤独や孤立と無縁の楽しそうな生活の様子が伝わってくる。

 生き方は社会が決めるものではない。自分で決めればいいのだ。そんなニュアンスで背中を押してくれるような読後感も心地よい。資本主義のからくりに騙され続けたまま、自分を、人生を、見失わないために、鉄砲代わりの武器としても読める刺激的な作品だ。

文=樺山美夏