「唐揚げ手抜き論」はどこから来たのか。人類学の視点から読み解く家庭料理【読書日記26冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/8/24

2020年8月某日

 Twitterをぼんやり眺めていたら「唐揚げ」「手抜き」の文言が流れてきた。元ツイートを遡るほどの気力もないが、「ポテサラ論争」のときみたいに女性を罵るような文脈なのだろうなと思ってうんざりする。ネットの“議論”はうんざりだ。

 また、それに対して怒る人にはもっともだとも思いつつ、そんなつまらない輩に構う時間がもったいないのではないかと思ってしまう。でも、そう思える私は、そういう輩から随分と遠いところまで逃げてこられただけなのかもしれない。旦那や上司が「唐揚げポテサラおじさん」だという人や、家事や育児に追われている渦中の人にとっては、ゼロ距離で迫ってくる許せざる敵になっていても不思議ではない。

佐々木ののか

 それにしても、どうして料理が「手抜き」だと責められたり、「このくらいはできて当然」という基準が女性に対して求められたりするのだろう。あるいは、いつから、そんな風潮が出てきたのだろう。

 もちろん、性別による役割分業で「家事は女性がするもの」とされていたり、家父長制による男尊女卑の尾を引いていたりといった理由はすぐに思いつくけれど、その傾向も時代によって少しずつ変化してきているはずだ。変化の立役者となったのは誰、あるいはどんな出来事だったのだろう。

 そんな疑問に独自の視点から答えをくれる本がある。それは『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか』(久保明教/コトニ社)だ。

「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか
『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか』(久保明教/コトニ社)

 本書は、人類学者である著者が、家庭料理をめぐる学問的な考察と日常の経験を行ったり来たりしながら、家庭料理の変遷を辿るものだ。したがって、学術的な論文でなければ、エッセイでもない。

 本書では、家庭料理について、近代化が完成した1960~1970年代の「モダン」な家庭料理、ポストモダニズム的懐疑が提起された1980~1990年代の「ポストモダン」な家庭料理、ポストモダンな家庭料理を前提として規範的な家庭料理のあり方が無効化されていく2000~2010年代の「ノンモダン」の3つに区分し、各時代で大切にされた価値観や諦めなければいけなかった価値観などを捉えていく。

 前述した「手抜き」に関する批判は、「唐揚げポテサラおじさん」によるものだけでなく、1960~1970年代のモダン家庭料理時代の女性から、その娘世代であるポストモダン家庭料理時代の女性たちへも向けられた。

 1990年代後半から2000年代前半にかけて実施された調査に基づいて書かれた『変わる家族 変わる食卓』では、「主婦が朝起きてこず、おやつを朝食にし、夕食はコンビニで家族各々が好きなものを買ってくる」ことが印象的に描かれている。本書に対する主な反応は「この方々の母親世代までは昔ながらの食事をつくってきたはずなのに、どうしてこんな風になってしまったのですか」というものだったという。実際に、母親世代にあたるモダン家庭料理世代の女性たちに調査を行った際も、一様に顔をしかめた。

 しかし、モダン家庭料理世代の女性たちもまた、戦後に登場した家電や加工食品などを次々と取り入れる「食の簡易化」に肯定的だったという。ではなぜ、モダン家庭料理世代の女性たちは「おやつを朝食にし、夕食にコンビニ弁当を食べる」家庭を嫌がるのだろうか。そこには、「食の簡易化」と「手作りの重視」の共立があったのだと著者は指摘する。

 モダン家庭料理世代のさらに一つ上の世代で、機械化が進んでいない農村に暮らしていた人々は鶏を飼い、キノコを採り、豆腐やこんにゃくまで自作するなど、食材の大部分を自分たちで賄っていた。農村の生活は素材からの自給自足、すなわち手作りが当たり前なため、そもそも「手作り」という観念が入り込む余地はなかった。また、それらの味は「我が家の味」でなく、「共同体の味」であったのである。

 他方、モダン家庭料理世代は食材を得るために土を耕すことはなく、スーパーマーケットで食材を買ってくればいい。この点において、たとえインスタントラーメンなどのいわゆる「手抜き」料理をしない家庭であっても、「食の簡易化」には肯定的だったといえる。

 また、「手作りの重視」がされた理由の一つとしては、「恋愛結婚の増加」があるという。たとえば、近い共同体内でお見合いをして結婚することが多い時代とは違い、都市で出会って出身地の異なる人との恋愛を経た結婚が増えてきたモダン家庭料理世代は、夫と妻で馴染んできた味が違うため、新たに「我が家の味」を築いていかなければいけなかった。

 それこそが「和洋中の美味しい一汁三菜を女性が心をこめて手作りすることが家庭料理の潤滑油になるというイメージ」であり、俗にいう「おふくろの味」なのだ。

 ちなみに、この言葉を広めたのは、1967~1981年にかけて「おふくろの味」というキーワードを含む複数の料理レシピ本を出版した、料理研究家の土井勝である。そのうちの1冊である『おふくろの味』の中で、土井は、

「私はね。カレーライスでもいい。ただしそれはインスタントではない。おとなりのカレーとも違う。我が家のカレーでなければならない。ラーメンでもいい。ただし、それは母親の手が一手加わったものでなければいけないと思います」

 と、手作りの大切さを強調した。

 このように、1960~1970年代のモダン家庭料理世代は「食の簡易化」と「手作りの重視」で「我が家の味」を構築することに重きを置いてきた。だからこそ、手作りの余地を全く残さず、食の好みをすり合わせて「我が家の味」をつくることをしない、コンビニで各々が好きなものを買ってくる食事の風景は彼女たちに驚きを与えたのだ。同じ「食の簡易化」、言うなれば「手抜き」であっても、その意味が異なったのである。

 また、「食の簡易化」がされながら、「手作りの重視」が守られた理由の一つとして、筆者はマルセル・モースの贈与論を用いながら、家庭が近代における贈与関係の拠点であったことを挙げる。

 生活史研究家の阿古真理は、高度経済成長において「妻の手の込んだ料理は、稼いでくる夫への報酬になった」と述べているが、「報酬」は夫への「贈り物」とも解釈できる。当時の主婦たちは「食の簡易化」がなされ、できた時間を使って食事を「手作り」することによって「贈り物」としての付加価値を与えることに「自らの存在意義をかけて」いた。

「家庭料理=愛情」という等式は、メディアによる喧伝だけではなく、こうした「贈り物としての家庭料理」が下支えしたと言えるのである。ちなみに、この「贈り物」観念の名残は今でもある。

 山尾美香は、国民生活時間調査において、1960年と2000年の家庭婦人の家事労働時間がともに7時間12分であることに注目し、家事の簡易化が進んだにもかかわらず、家事労働時間が短縮できない背景には「家事労働=愛情」の等式があり、「手抜き」が許されなかったからとしている。

 家事や家庭料理の「手抜き言説」の背景を繙くために紹介した本書だが、他にも“正統派”としての土井勝・江上トミ・飯田深雪の誕生や、その「正しさ」に対するオルタナティブとして「手作り」でも「手抜き」でもない「美味しい時短」を発明した小林カツ代、定型的な家庭料理を解体して「お店の味」に近づける栗原はるみ、栗原の系譜を受け継いで「我が家の味」から離脱していった雑誌『マート』、小林が発明した「美味しい時短」レシピをデータベース化した「クックパッド」など、具体的な人物や媒体を挙げながら見る変遷も興味深かった。

「正しさ」を脱構築していく小林カツ代と栗原はるみの存在が日本の家庭料理に与えた影響は大きい。本書の中には、料理や暮らしや学問をめぐる思考や実践が再構築を促す目的で「実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負」というレシピを再現・実食する異色のコーナーが設けられているが、“勝負”の選手にふたりが選出された理由も納得だ。

 手抜き唐揚げの話から随分と遠くまで来てしまったけれど、家庭や家庭料理には、流通の発達、日本経済・結婚のかたちの変化、贈与拠点としての家庭といった、何層にも折り重なった背景が存在することがわかる。

 ある地点におけるある角度から良しとされているものも、地点や角度を変えれば、全く違った景色が見えてくる。そうした奥行きもなく、平面ですらなく、2つの地点同士を比較して、是か非かだけが問われるネットの議論に憤る。そうした“議論”を悪だとか、嫌いだとかというよりも、窮屈で寂しい、と感じてしまうのは私だけだろうか。

文=佐々木ののか 
バナー写真=Atsutomo Hino

 
写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。

Twitter:@sasakinonoka