突然、バタバタと人が死に始め、予告なく街が閉鎖された。こんな理不尽があるだろうか?/60分でわかる カミュの「ペスト」②
公開日:2020/9/2
超難解なカミュ『ペスト』のポイントを、マンガとあらすじで理解できる1冊。感染症の恐怖にさらされたとき、人間は何を考え、どう行動するべきか。解決策が見つからない中、立ち上がった人々の物語をご紹介します。
ある日突然、バタバタと人が死に始めた。
隣人が、家族が、言葉にならないほどむごたらしく死んでいく。
「え? なんで? なんで?」と戸惑うばかり。だが、専門家も行政機関も、それがなんなのか、なにも教えてくれない。
「くそっ! 早く教えろよ!」
と、イライラしていたら、また突然、街が閉鎖された。それも「閉鎖します」という予告ではなく、「閉鎖されました」と告知が出されたのみ。こうして、非常に危険な細菌がまん延する街に閉じ込められてしまったのだ。
こんな理不尽、想像できるだろうか?
でも、あるのだ。実際に、こんな理不尽が――。
これが『ペスト』のアウトブレイクだ。たしかに、ペスト(ペスト菌による感染症)の厄災は凄惨だ。しかし、平等でもある。老いも若きも、立場も性別も年収も関係なく、ペストは人々を襲いまくる。
アルベール・カミュの名作、名前もそのまま『ペスト』は、ペストに侵された街の人々を描き出す。この小説は、ある男のルポルタージュという形を用いることで、フィクションでありながらノンフィクションの生々しさを持っている。
有効な抗生物質が用意されている現代では、ペストの致死率は十パーセント以下。しかし、現代のような医療が確立される以前の時代では、感染すればほぼ死が確定。それがペストの恐怖だ。
最初の記録として残る六世紀のパンデミックでは、コンスタンチノープルで一日一万人が死亡。これまでにペストの世界的大流行は三度あり、黒死病として世界史の教科書に登場するのは、十四世紀から始まる第二次流行で、百三十年以上にわたりヨーロッパ各地を襲い続けた。このパンデミックによって、ヨーロッパの人口の三分の一が死亡したそうだ。
そして、ペストはまだ終息していないことに、注意しよう。
なんと、第三次流行が、十九世紀の中国とインドで発生しているのだ。
いみじくも、『ペスト』のしめくくりでカミュは警告している。
「ペスト菌は決して消滅することはない。何十年もの間、家具や衣服、穴倉の中でしんぼう強く待ち続け、そしていつか、ネズミたちを呼び起こして、人間に不幸と教訓をもたらすだろう」
さて、『ペスト』の舞台となるのは、フランス植民地時代のアルジェリアの港街オラン。アルジェリアに実際に存在し、首都アルジェにつぐ第二の都市であり、オラン県の県庁所在地でもある。ここで、新型コロナウイルスとはレベルの違う殺傷力を持つペスト菌のアウトブレイクが起こってしまう。そして街は完全封鎖される。それは、わたしたちが体験した緊急事態宣言のような生ぬるいものではない。脱出しようとするふらち者には鉄砲が向けられ、監獄に入れられた。
いつ自分が感染するかわからない。家族、友人がつぎつぎと死んでいく。街ごと監禁された人々はこの極限状態をどう乗り切るのか? こんな状況だからこそ露わになるテーマを、カミュは用意している。
それが、「自由な人間」だ。
「自由な人間」とはどのような人間なのか?
それに答えるのもこの本のミッションなのだが、そのためにも、「ペスト」なるものの本質を、はっきりさせておかねばならない。
ペストは理由説明を許さないものだ。
なぜ、今なのか?
なぜ、この街なのか?
なぜ、わたしなのか?
なぜ、閉じ込めるのか?
なぜ、死ぬのか?
これらの「なぜ」に答えてくれる理由がないのだ。
一般的に、世の中の仕組みには合理的な理由がある。たとえば、義務教育。教育基本法で事細かく定義され、学校教育法で小学校六年、中学校三年と定められている。そして、「社会で自立する基礎」などと、「なぜ」が説明されている。
だが、ペストは違う。「なぜ?」なんてゆうちょうに考える前に、「すでに今、この街で、大勢死んでいる。あなたも感染したら死ぬ」という状況に巻き込まれてしまっているのだ。
このような極限状態で、『ペスト』は「自由な人間」を暴き出そうと試みる。
「そんな状況、ぜんぜん自由じゃない」という声が聞こえてきそうだが、このような状況だからこそ、「自由な人間」であり続けられるのだ。
なんでも当たり前にできてしまうところでは、むしろ人間は自由になれなくなってしまう。選択基準が、安定と従属になってしまうからだ。
そもそも、「人間とはなにか?」に対して『ペスト』が用意している答えが「自由」なのだ。
では、「自由である」とはどういうことだろうか?
『ペスト』にはこんな一節がある。
「ペストという、未来も移動も議論も封じてしまうものなど、どうしたら予想できただろうか? 彼らは、自分は自由であると信じていた。だが、天災がある限り、だれも自由になどなれないのだ」
都市丸ごとの隔離封鎖、これこそ、不自由でなくしてなんであろう。
しかし、カミュは『ペスト』を通して、身分の上下や出身地にかかわらず、わたしたちは「自由な人間」になれることを教え示している。もちろん、真逆の、自由を放棄した「囚人」になれることも。
「自由な人間」は、「与えられている」あり方に抗う。「自由な人間」だけが戦い続けられる。反対に「囚人」とは、与えられることに依存し、戦いを放棄した意志なき者たちだ。
『ペスト』には、「自由な人間」も、「囚人」も登場する。はたしてあなたはどちら側に属するだろうか? どちらの人間になることを選ぶだろうか?
どちらを選ぶかは、あなた次第だが、一つだけ、伝えておかなくてはならないことがある。
どちら側にいても、死ぬ時は死ぬ、のだ。
「自由な人間」としてペストと戦うことを選んでも、感染リスクが非常に高い現場にい続けても、生き残る者は生き残り、死ぬ者は死ぬ。「囚人」として一切の自由を放棄し、一切を人任せにしていても、死ぬ者は死ぬ。
しかし、二つの違いは最後に現れる。
「自由な人間」として戦った者だけに許される言葉があるのだ。
「ありがとう。今こそ、すべてはよい」
さて、あなたはどうだろうか?
あなたが死ぬ時、この言葉を口にできるだろうか?