誕生日前夜、自室にこもる代わりに外出する。家族にあらぬ心配を向けられないように…/住野よる『この気持ちもいつか忘れる』②
公開日:2020/9/22
平凡な日常に退屈し、周囲や家族とも適度な距離をとって生きるカヤ。16歳になった直後、深夜の人気のないバス停で、爪と目しか見えない少女と出会う。日常に訪れた「特別」に喜び、真夜中の邂逅を重ねるうち、カヤたちはあることに気づき――。
『君の膵臓をたべたい』の著者・住野よる氏の新作『この気持ちもいつか忘れる』(新潮社)は、氏が敬愛するバンド・THE BACK HORNと、構想段階から打ち合わせを重ね、創作の過程を共有し執筆したという作品。
「小説家×ミュージシャン」という史上初のコラボ作品を、全5回で試し読み配信。
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「あー香弥(かや)、おかえり」
家に帰ると、母がちょうど出かけようとしていた。喪服を着ている。
「ただいま」
「間に合ってよかった。お母さん、出かけてくるから。香弥は会ったことないけど、おじいちゃんの妹が亡くなってお通夜に行ってくるの。お兄ちゃんにも伝えといてくれる?」
「分かった」
「帰るの遅くなるけど、夕飯冷蔵庫にあるからチンして食べといて。あとおやつも」
「うん」
「誕生日までには帰ってくるから」
「うん。――見つからないように」
母を見送り、俺はありふれた一軒家の二階にあがって自室で鞄(かばん)を下ろす。制服からジャージに着替え、一階に下りて冷蔵庫を開けると、ドーナツの箱が入っていた。冷やすもんか? と思いつつ箱を取り出して開け、一番カロリーがありそうなやつを手に取る。走る分のエネルギーがいるからだ。
静かな家の中で、リビングのテーブルに座ってドーナツをかじる。うちは、どこにでもある家庭の一つで、父は今頃身を粉にして働き、兄も午前中から大学に行って午後はバイトに精を出している。母がいなければこの時間は自分以外の人間がいない。彼らは平凡に生き、それなりに楽しそうに毎日を送っている。一番年下の俺に向かって、十代の頃が一番楽しいんだぞ、だなんてクソみたいな人生への諦(あきら)めを口にしながら。
ふと気がついて席を立ち、リビングの隅に置かれているラジオの電源を入れた。普段なら、母がラジオを聴きながら家事をするために俺が帰宅した時は常についている。そういう環境で育って来たから、無音よりもラジオの音が鳴っている方が余計なものを聴かずに済む気がする。つけるとちょうど戦争に関するニュースをやっていた。最近はこればかりだ。
口の中の水分をドーナツに吸収されたので、冷蔵庫から牛乳を取り出してグラスに入れて飲んだ。小さな頃から牛乳が割と好きで、だから平均よりも高い身長を手にしているのかもしれない。残念ながら、背が高いことで有利になるスポーツに興味を持つことはなかった。
腹が減っているから美味い。食うのは結局生きるためだ。つまらないんなら生きている意味なんてないんじゃないかと思う奴もいるだろう。しかし自殺って選択肢は今のところ俺にはない。死ぬことへの恐怖は当たり前にある。でもそれ以上に、つまんねえから、今死んでも。今死んだってどうせ、前の席の田中みたいな奴に、やると思ってたなんて言われて終わりだ。なんの意味もない。
三十分ほど消化のために休憩をしてから、俺はラジオを止め電気を消し、ランニング用のスニーカーを履いて出かける。家の前でストレッチをしてから、歩き出し、徐々にスピードを上げていく。コースは毎日同じで、山の方に向かっていく。悩んだりしない。何かあった時のために、とりあえず体を鍛えている。多少の爽快感がないではない。
走ってる最中は、何も考えない時間と、何かを考えている時間が交互にやってくる。何かを考えている時は大抵、どうすればこんなつまらない毎日から抜け出せるのかを考えている。中学の頃から、走っている最中に思いついては、不良の行動をまねしてみたり、突然部活を見学に行ってみたり、音楽と共に生活をしてみたりした。「これだけか」と自分に失望するまで続け、そしてまた走り出し、考える。この繰り返しだ。今度は何をしよう。
真冬の間は部活できつい練習に耐えているような気分だったけど、二月も後半になり随分と走りやすい気温の日が増えてきた。
いつもの田舎道で目印となる鉄塔を折り返し、走ること計一時間程度だろうか。帰り道、それなりに息があがった状態で、ラストスパートとして途中にある林の中へと入っていく。舗装されていない道を登っていくと、やがてボロボロのアスファルトの道に出て、道路沿いに進めばそこに一つのバス停がある。そこが、俺のランニングのゴール地点だ。
使われなくなりさびて茶色くなったバス停には、もうどれだけ待っても来ることのないバスの時刻表が貼られている。横には必要もないだろうにプレハブ小屋のような待合室があって、俺はいつもスライドドアを開けて、中のベンチに座る。
息が整い、鼓動が落ち着くと、待合室には鳥の鳴き声以外は届かなくなる。目の前のアスファルトの道には車の一台も通らない。何年も前にこの林を迂回(うかい)する綺麗な道路が出来てからは皆がそちらを利用するようになった。
この場所をゴール地点にしている最も大きな理由は人が来ないからだ。これは自分でも上手く説明の出来ない感覚なのだけれど、俺は人に走っているのをやめる瞬間を見られるのが嫌いだ。走っている最中や出発するところを見られることは特に何とも思わないが、やめる瞬間だけは自分のものとしておきたい。
次に大きな理由は、これは俺の中の妄想というか、なんというか、ここでだけは夢想することが出来る。こんな場所に座っていたら、いつか不思議なバスがやってきて俺を連れ去ってくれるような、そんなバカげたことも一人きりでなら思うことが許されそうな気がしてしまう。ファンタジーが起きないことくらい知っている。そんな夢想をする自分が、教室で自分を慰めている奴らと同じくらいくだらない人間であることは知っている。だから他ではしない。ここでだけ、許されることにしている。一日に二度、本当に一人きりになるここでだけ。
誰や彼やにも夢想の場所はあるだろうか。いや、必要のないものだろうな。
汗がひくまでそこでじっとして、気持ちのリズムが整った時を狙って立ち上がり、またつまらない自分を知るために待合室を出る。妙に曲がりくねったアスファルトの道の右にも左にも人影はない。
三十分ほど歩いて家に帰ると、兄が帰宅していた。リビングでなんでもない挨拶を交わしてから母からの伝言を渡した。
「あれ、香弥誕生日今日だっけ?」
「明日」
つまらないこと以外には過不足ない家族に反抗する意味はない。それだけ答えて、自室へ上がり着替える。夕食の時間まで、ランニング中に次の挑戦として思いついた山登りについて調べた。人と競ったり、人がこれまでに作った記録と戦ったりするスポーツは、歴史に名を残せる人間以外がしてもなんの意味もないと思っているが、自然が相手というのはいいかもしれない。普通の生活をしていては見られないものをこの目で見れば、自分の中で何かが変わる瞬間もあるかもしれない。もちろんどんな美しい景色を見ても、「これだけか」で終わる可能性も十分にあるけど。
山を登り続けて人がたどり着けない境地に至った坊さんがいるという話をネットで見ているあたりで、腹が減ってきた。
一階に下りて母の用意した飯を食い、それなりに美味いと感じて、兄とまたどうでもいい会話をし、自室に戻る。かつては俺が自室にこもっていることを両親は心配している節があったが、最近では特にそういうこともない。毎日の夕食後、俺が予定を入れているのを知ったからだ。
今度は一時間ほど、部屋で登山に必要なものなどを調べてから、俺はもう一度ジャージに着替える。そうして、一階に下り、兄のいるリビングに向かった。
「行ってくる」