まだ見ぬ文学の深い森へ…希代の批評家・佐々木敦が先導する『絶体絶命文芸時評』
公開日:2020/9/27
以前、知人が佐々木敦について「ザ・批評家」だと形容していて、得心したことがある。佐々木氏は映画監督のゴダールを論じた本でデビューし、その後音楽レーベルを立ち上げて海外の音楽家の招聘も行い、国内では□□□(クチロロ)や蓮沼執太らの作品をリリース。編集長を務めた『エクス・ポ』という900ページにもわたる雑誌では、大々的に演劇を特集していた。
そんな佐々木敦氏の『絶体絶命文芸時評』(書肆侃侃房)は、文学に関する著作も多い佐々木氏が5年間続けた文芸時評を中心に、論考や対談を加えたものだ。
書名にもある「文芸時評」とは、主要な文芸誌を毎号すべて読み、そこで取り上げられた小説や特集について論じる記事のこと。複数の新聞に同時掲載されるもので、今ではネットでも読むことができる。だが、大学でも教鞭を執る著者が生徒に聞くと、文芸誌の存在すら知らない生徒がほとんどだという。それほどニッチな世界だと言ってもいい。
小説を掲載する文芸誌は昨今、特集の占める割合が増えている。『文藝』2019年秋号では、「韓国・フェミニズム・日本」という特集を組み、増刷分は予約でほぼ完売した。だが、佐々木氏の時評はひとつでも多くの小説を紹介するというスタンスで、特集にはほぼ触れない。愚直かつ素直に小説の魅力を書き連ねていくというスタイルだ。
文芸時評が難しいのは、批評対象となる小説を既に読んだことがある人と、そうでない人の両方が目にするということ。そして佐々木は、その両者に訴求力を持つ書き方を試行してきたように思える。ゆえに、小説に対する講評はもちろん、小説家の過去作や受賞歴、立ち位置などを明示している。新規の読者を開拓したい、という思いもあるのだろう。門外漢にも親切な構成である。
一方で、賞賛に値すると思う小説(家)は大仰なまでに「推す」ところがある。保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』について「小説とは限りなく、果てもなく自由な形式であるということを、この作品は体現している。しかしこれを誰にでも出来ると思ったら大違いだ」と述べ、山下澄人『月の客』には「とにかく書きっぷりが凄い。これはもう自由自在という形容では全然足りない」と賛辞を送る。この筆圧の高さ、アジテーショナルとも言える大仰さは、紛れもない著者の武器だと思う。
また、「推し」続けていた特定の小説家が賞を獲っても、その後の作品については是々非々を貫いている。だから、「文章も構成も難解というわけではないが、意図や狙いがよくわからない」「方法に筆力が追いついていない」「結末が物足りない」「あと50枚位足してもよかった」といった提言も記す。フラットで誠実なのである。
冒頭で佐々木氏は「自分の書いたことをたまたま読んだ読者が、まだ知らない世界へ誘われたり、知っているはずの世界の見方が変わってくれたらいいなと素朴に願っている」と述べている。本書が、まだ見ぬ文学の深い森へと分け入る地図のような、未知との遭遇への契機となるような本になることを願うばかりである。
文=土佐有明