今いる場所で息苦しくなったら、「呼吸できる場所」を自分で耕せばいい【読書日記28冊目】
公開日:2020/9/28
2020年9月某日
ここではないどこかへという気持ちが、日増しに輪郭を色濃くしている。どこかというのがどこなのか、そもそも「どこ」とは「場所」なのかもわからず、酸素を補給する場所を求めて、都内の気になる展覧会をめぐり続けている。
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止まったら死んでしまう回遊魚のように動き続けるのは、常に変化が求められる「都市の時間」を生きているからだ。
止まったら死ぬ。
変化できなければ死ぬ。
後退しても死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
都市の時間は「直線の時間」とも言い換えられる。直線の時間は直線であるがために、常に変化を求められた先にある「死」は切り立った崖の先にある。
しかし、私たちが年を重ねて老いていく過程では、私たちは絶対に「後退」する。自分の人生を自分で切り拓いていく強さは眩しいが、思い通りにならなくなった人生を、自分を、老いや死を、肯定できない生に耐えることなどできるだろうか。
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ここではないどこかへと想いを馳せるとき、私の頭に真っ先に思い浮かぶのは「あの世」とか「異界」とか呼ばれる、あっち側の世界のことだ。
いくら自由にどこでも行けるといったって、どこまで行っても「この世」であり、そこから逃れることはできない。検索窓に「死にたい」と打ち込んでも、「いのちの電話」に回帰させられる世の中だ。目覚めても目覚めても夢であるような閉塞感に、今にも窒息しそうなのは私だけだろうか。
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そんな折、作家の太田明日香さんに紹介してもらったのが『彼岸の図書館――ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)だった。明日香さんには、私が以前から地方移住に関心があることを伝えていて、「食卓を囲める人がいるといい」と答えたインタビューを読んでもらっていた経緯もあり、「きっと好きだと思う」と勧めてくれた本だった。私は明日香さんのそうした審美眼をとても信頼している。加えて、タイトルの「彼岸」に惹かれて、即注文したのだった。
本書は、著者の青木真兵(しんぺい)・海青子(みあこ)夫妻が、縁もゆかりもない奈良県・東吉野村に「移住」し、自宅を図書館として開く「実験」を軸にした12の対談とエッセイ集である。
自宅を図書館として開く「実験」という言葉にも目を奪われるが、まず着目してほしいのは、「移住」だ。このカギ括弧には、本書が大文字の「地方移住」の文脈とは異なることが示されている。
そもそも、ふたりが「移住」することになったきっかけは、東日本大震災にある。当時の青木夫妻は金沢から神戸に越したばかり。震災の影響を直接的に受けたわけではなかったが、電力会社がスポンサーであることを理由に、メディアが「原発」について自由に発信できないという事実に打ちのめされ、夫婦そろって体調を崩していったという。
そんな彼らがまず始めたのは、さまざまな分野の人たちと生活の中で覚えた違和感を吐露しあえる「オムライスラヂオ」というインターネットラジオだった。そして、「自分たちが伸びやかに考えられる余白」を求めて、村に引っ越し、街で見つけた古い物件を自宅とし、そこに「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を開いた。
その意味で、彼らの「移住」は、「自己実現」や「夢を叶えた」といった、いわゆる移住の文脈からはほど遠い「命からがら」なものだった。
どんなに追い詰められた状態であっても与えられる環境にのみ依存せず、自分たちの場所を開拓し、自分自身を癒していけるのだということを知り、私は随分と息がしやすくなったのだった。
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「オムライスラヂオ」の収録をベースに展開される対談にも、胸に留め置きたいお話がたくさん詰まっている。
内田樹さんによる「東京のスピード」のメリットとデメリットの話や弱い人間だからこその生き方についての「弱さの手柄」の話、人間の身体は最も身近な自然であるという話、青木夫妻による「移住者」への特別な「まなざし」に対する違和感のお話などなど。
とくに印象に残ったのは、家庭教師をして最低限の収入を得ながら、稲作や養鶏をして自給自足生活を送っている東千茅(あずま・ちがや)さんのお話だった。
東さんは「人間に働かされることに喜びはない」と言うが、ニワトリのエサとなる虫を集め“させられたり”することには喜びを感じるという。東さんが人間嫌いということもあるだろうけれど、その根底に横たわる「自然や“神”のような、人間よりも大きな存在のために働きたい」という話はなんだか深く頷いてしまった。
自分で何もかもを決められる自由は、居心地が良い一方で、何にも凌駕されない寂しさもある。尊敬している人はたくさんいるが、人間をはるかに超える存在に出会ってひれ伏したい。そんな想いが私の「異界」への憧憬を深めているのかもしれない。
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目から鱗の視点が鏤められた他の対談も楽しく読んだし、青木夫妻の「実験」を肯定的に受け取っていたけれど、私にはひとつ気がかりなことがあった。
それは、「場所」を開くことに対する怯えである。
セキュリティの心配ではない。弱さを盾にして侵食してくる人たちの存在への警戒心と呼んでもいい。「生きづらさを抱えた人たちの居場所」には、生きづらさを抱えた人たちによる「暴力」が生まれがちだ。自分が気持ちよく暮らすために場所を開いたのに、外から侵食されてはたまったものではない。そういう心配はないのだろうか。
そんな不安に対しても、本書は答えをくれている。
青木海青子さんによるエッセイ『優しさ問題』では、支える人と支えられる人は入れ替わることもあることを前提として、こんな風に書かれていた。
〈弱さを武器にお尻に根を生やし、人の優しさをもぎ取り続けることだけは避けたい。生きづらさや弱さに向かい合うときには、支えられる側も支える側も、お互いが感情のある人間であるという認識を持ち、「正しさ」より「楽チンさ」をものさしに落としどころを探せたらいいんじゃないかな、と思っています。〉
自分が「支える側」という欺瞞に陥ることもなく、抱え込みすぎることもない「楽チンさ」を大切にする海青子さんの考え方は、場づくりだけでなく、人間関係にも通じると感じた。
二者間の関係でも、コミュニティでも、膠着するとうまくいかなくなることが多い。どのように“遊び”を持たせればいいのかが個人的な課題だった私にとって「楽チン」はしっくりくるフレーズだった。
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都市が悪いとか、地方や「移住」が最高と言いたいのではない。
全く以って真似しようというのでもない。
ただ、いろいろな分野で生きるユニークな方々の視点を採集しながら、自分たちが呼吸できる場所を自ら拓き、耕し、自分たちを回復させていく試みに勇気づけられた。そして、「私ならどうするかな」と自分で立てる力を、バトンを受け渡してもらえた気がしたのである。
顔を上げると、いつもの部屋が見える。だけど、心なしか少しだけ余白が広がっていた気がした。
文=佐々木ののか
バナー写真=Atsutomo Hino
写真=Yukihiro Nakamura
【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka