襲われた自分を救った恩人を見捨てて逃げてしまったら…世間からの誹謗中傷と自らの過ちに向き合う術は
更新日:2020/9/29
理不尽な暴力を受けた者は、肉体だけでなく、心にも深い傷を残す。その心の傷は復讐によって癒えるのか。そんな暴力によって傷を負った人の魂の救済についての物語を描いてきた作家、小林由香氏。最新作『イノセンス』(KADOKAWA)もまた復讐と救済についての物語だ。主人公である大学生、音海星吾は自分自身が過去に罪を犯し、その過去にどこまでもつきまとわれ、復讐を受け続けているかのような日々を送っている。
高校受験を控えた14歳の秋、星吾は予備校近くの繁華街で恐喝に遭う。ナイフをちらつかせる3人の不良に怯えながら財布を出そうとしたとき、通りすがりの見知らぬ青年が星吾を助けに入った。しかし、その青年、氷室慶一郎は不良たちに凄惨な暴力を受けた末、ナイフで刺されるという事態に。恐怖のあまりパニックになった星吾は救急車を呼ぶこともせずに現場から逃げ去り、現場に置き去りにされた氷室は出血性ショックで死んでしまう。未成年だった3人の加害者たちは逮捕、2人が逆送されて実刑判決を受け、1人は中等少年院送致となった。
世間は氷室を勇敢なヒーローとして称賛し、その死を嘆く一方で、加害者の3人を罵倒、糾弾する。そして、人々の怒りの矛先は、恩人である氷室を見捨てるようにして逃げた星吾にも向かった。インターネットの掲示板やSNSで実名をさらされたうえに執拗に誹謗中傷され、家族をも巻き添えになってしまうのだ。その後、星吾はなんとか大学進学を果たすが、罪悪感と自己嫌悪、死んだ氷室の幻覚に苛まれながら孤独な生活を送るようになっていく。
自分の人生に絶望しか感じていない星吾を断罪するかのような嫌がらせは続く。星吾は他人に心を閉ざして誰とも深く関わらないようにしていたが、通学途中の駅のホームで電車に飛び込もうとした男をとっさに止め、そのうえで「そんなに死にたいなら夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ」と吐き捨てた現場を同じ大学に通う紗椰に目撃されてしまう。
紗椰は星吾を厳しく非難し、その後もその冷たい言動を責めるようになっていく。一方、星吾の過去を知ったうえで励ましの言葉をかけてくれる美術サークルの顧問の宇佐美や、星吾の過去は知らないものの常に優しく接してくれるアルバイト先の同僚の光輝の存在に、星吾は自分の頑なな心が動かされていくのを感じていた。
しかし、嫌がらせの限度を超えた命の危険をも感じる出来事が次々と星吾を襲い、さらに仮釈放されていた氷室を殺害した加害者のうち2人が謎の死を遂げていたことが発覚。星吾もまた命を狙われているのか。いったい誰が、何のために? 疑心暗鬼にとらわれる中、紗椰との交流を経て星吾の心にある変化が訪れる――。
一度、過ちを犯した人間には普通に生きることすら許されないのか。星吾が抱える葛藤は重い。法による裁きではなく、いわば私刑によって人生を破壊された星吾には贖罪を果たすことすらできない。しかし、星吾はある行動によって、これまで果たせなかった贖罪を試みる。そこから事件の意外な真相がすべて明らかになったとき、著者がこの物語で示そうとした赦しと救済の道筋が見えてくるだろう。
星吾に過去を告白されたとき、宇佐美は次のように言う。
「この世に罪のない人間なんていない」
確かに一面の真理を突いた言葉だろう。そうであるならば、人々はどのように自分の罪と向き合うべきなのか。著者はこのサスペンスに満ちた愛の物語で、そのあり方を描いている。
文=橋富政彦