「これは俺の子じゃない!」 別れた妻が実家で産んだ子を巡ってお上を巻き込む大騒動に

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/4

『性からよむ江戸時代 生活の現場から』(沢山美果子/岩波書店)

 農業を営む「善次郎」と「きや」。夫婦仲が悪く離婚をして、妻は実家に帰った――ここまでは、よく聞く話だ。ところが、この妻が実家で子どもを産む。これが騒動の始まりだ。子の父は誰なのかという大きな謎が横たわっていたからだ。そんなの、産んだ本人に聞けばわかるじゃないか、と思うかもしれない。しかし、そう簡単にはいかなかったから大変だ。妻に尋ねれば、「これは元夫の子だ」と言う。しかし、元夫に尋ねると「俺の子じゃない、妻が別の男と不倫をしてできた子だ」と言う。さて、真相はいかに…?
 
 ともすれば週刊誌のネタになりそうなこの騒動が起きたのは、文化2(1805)年のことだ。そう、江戸時代の農民の話なのだ。『性からよむ江戸時代 生活の現場から』(沢山美果子/岩波書店)は、江戸時代における庶民の性の営みについて紹介する本。善次郎ときやの騒動はここに紹介されているものだ。なんだ、大昔の夫婦不和かと思うなかれ。なぜならただの名もなき男女の記録が後世に伝わることはまずないからだ。ではなぜ善次郎ときやの騒動は、後世の私たちにも伝わったのだろうか。

果たして誰の子? 一騒動が後世まで残った理由とは

 この騒動は家同士で解決ができず、村役人にも相談したが収まらなかった。そこで事の経緯をしたため、藩の役人にまで提出された。この時代における藩とは、民衆にとって国家も同然。つまり、最高権力による裁定を求めたということになる。これは大変珍しいケースだ。だからこそ、今に伝わる史料として、男と女に関する貴重な記録となったのだ。

 結局騒動の幕引きは、「子は元夫の子である」とされ、子は夫の家に引き取られ、妻は実家に帰った。史料には、この幕引きに至るまでの役人との当人たちのやり取りが、具体的に残されていて、夫婦間の最後の性交渉はいつか? 妻は不倫をするような態度を日頃から見せていたのか? など、かなり突っ込んだ取り調べが行われた形跡が見られる。

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 今なら、ただの三面記事で終わるのかもしれないが、当の本人及び藩役人は至極真面目だ。その理由は、当時の農村での結婚と出産は管理されていたことによるという。具体的にいうと、村役人の仕事の内には、未婚の男女を把握し、結婚をうながす、村内の出産時の状況(出産予定日、難産、死産など)を記録する、「出生届」を作るといったことも含まれていた。また、腕のいい産婆は重宝され、難産の場合には医師も携わるなど、子どもを無事に誕生させようという村をあげての協力もあった。

 歴史上長きにわたって出産時の死亡率は高いままだったが、江戸時代後半、祈るだけではなく人の手によって、出産から死を遠ざけようと奮闘していたのだ。

 やっと人道的な時代になったのかと思いきや、そう単純ではないようだ。当時は吉原や島原以外にも各地に性売買の半公認地があり、宿屋や路上で格安で性売買が行われていることから思うことだ。

 役人が結婚と出産の管理をする理由は、「家」を存続させるためだ。特に農村地域では、妻として迎えられる女性には、厳しい農作業の労働力になり、かつ「家」を存続させ得る子が産めることが求められた。善次郎たちの住む地域は、女性は出産ぎりぎりまで重労働を行い、出産後も労働力としてすぐ復帰しなければならないという、米沢藩の山深い豪雪地帯でのこと。田畑を維持し、税を納め、一家が食べていくためには、「家」の人員増加に関して神経を尖らせなければならない。こうした背景があっての出来事だった。

 この騒動の結末を見るに,妻のきやは不義を働いた様子はなく、善次郎の「家」の家風には合わなかったかもしれないが、夫婦の性交渉は子が産まれるくらいにはあったというところだろう。そして、産まれた子が女の子だったことでどちらの「家」が子を引き取るか揉めることに。妻という労働力が欠けたところに、食い扶持がひとり分増えたのではかなわない…ということで、善次郎は「俺の子じゃない!」と、子どもをきやの実家に押し付けようとしたという見方もできる。

 明治以降近代化された世に比べると、江戸時代は性におおらかというイメージがあったが、「家」と結びついた性には重い責任が課されていたようだ。これまで知らなかった、男と女の歴史が本書から分かる。

文=奥みんす

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