ひきこもってもいい。「ひとりの時間」が人を強くする、ひきこもりの効用

暮らし

公開日:2020/10/5

『ひきこもれ〈新装版〉 ひとりの時間をもつということ』(吉本隆明/SBクリエイティブ)

 世間には、ひきこもりは悪いことだというイメージがある。例えば、子どもが学校に行かずに一日中部屋にひきこもっていれば、親はあの手この手を尽くして学校に行かせようとするだろう。しかし、『共同幻想論』などの著書で有名な思想家、吉本隆明氏は、ひきこもりは若者にとって必要な時間だという。『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』(吉本隆明/SBクリエイティブ)は、2002年に出た本を、新装版として再編集した新書版。やさしい文体で書かれている上に、齋藤孝氏の解説が付き、より分かりやすい内容になっている。
 
 まずは、本書から一部を引用してみよう。

〈家に一人でこもって誰とも顔を合わせずに長い時間を過ごす。まわりからは一見無駄に見えるでしょうが、「分断されない、ひとまとまりの時間」をもつことが、どんな職業にもかならず必要なのだとぼくは思います〉

 分断されない自分だけの時間が将来の糧につながるというのだ。はたして、その根拠はどこから来ているのだろうか?

「ひとりの時間」の重要性を改めて考えてみる

 吉本氏は、東京の下町月島の生まれ。職人が多い地域だった。彼らが腕を磨くためには、ひとり自分の思考に埋没して作業をする時間が必要で、1924年生まれの氏は、それを見てきたのだと思う。また、自身の仕事である、文章を書くという作業は、ひとりでしかできない。24時間人と一緒にいる環境では、考えたり言葉を紡ぎ出したりすることはむずかしい。この、自分の中で考えて言葉を紡ぎ出す(文中では〈第二の言語〉をもつと表されている)ことが、対人能力うんぬん以前に、その人自身の土台になるという。

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 土台になるというのは、周囲からの精神的自立をするという意味だろう。ただ上の人の言うことを聞くだけ、大勢に流されているだけでは、自分というものがなくなってしまう。一生そこに疑問を持たずにいられれば悩みはない。

 しかし、年月を経て何かのきっかけで、押し殺された欲求が空っぽの自分の中に湧き上がると、これは大変苦しいことになる。湧き上がる欲求を自分の中で言語化できないので、いらいらする、気分が沈むといった解消できない感情に悩まされることになるからだ。

 とはいえ、本書がすすめるのは、一生誰とも関わるなということではない。それに、親に経済的余裕があるとか、病的な症状が出ているといった場合は別だろうが、食べていくためには、必ず社会と関わらねばならない時がやってくる。吉本氏自身、孤独を突き詰めて、その上で周囲の人と風通し良くやっていくことを目指してきたという。

 ひとりでいるのが好きで社交下手な変わった奴、周りにそう思われていてもいい。別に、ひとりでいることが「悪」で、コミュニケーション能力抜群で常に人と一緒に居ることが「善」というわけではない。人の性質に善悪は付けられない。氏はそう述べている。

 また、小中学校時代のことも思い出して、学校が嫌いだったことも明かしている。先生が求めているのは、見かけ上だけの品行方正さ、教室に流れていた偽の厳粛さ。勉強ができることと頭の良さは違うのに、この2つが同じレールに乗せられているという、偽の頭の良し悪し。こうした建て前と嘘だらけの空間が耐え難かったそうだ。

 しかし、不登校でいるのは構わないが、それを特別視して不登校の子どもだけで固まってしまうのは良くないのではないかとも提言する。不登校になる子は、異常でも何でもなく、学校の欺瞞性を見抜ける鋭い(ある意味ではまともな)感受性を持っているのかもしれない。一般社会との区切りを作ってしまうのではなく、世の中にはさまざまな個性の人がいて、考え方は違ってもそこに優劣はないというふうに理解していかないと、偏りが生じてリラックスした幸福感を得られにくくなってしまうといった意味かと思う。

 ひきこもりも不登校もどうということはない、自分を得て自身の言葉を発信できるようになれ。この吉本氏から若者へのエールは、何となく周囲に馴染めないなどの生きづらさに悩む大人にも響くだろう。ついSNSやゲームなどのコミュニケーションで頭を埋めてしまう私たちだが、たまには意識的に孤独でいることが必要な気もしてくる。

文=奥みんす