「○○の真実」はノンフィクション風の物語かも? 思考停止にならないための注意点
公開日:2020/10/24
織田信長が行ったことを知っていても、佐藤栄作が何をしたかパッと答えられる人はどれくらいいるのだろうか。
歴史という言葉から連想ゲームをしてみたとする。歴史の教科書、大河ドラマ、司馬遼太郎の小説、江戸時代……。我々が思い浮かべるのは「遠い」時代な気がしてならない。近くても第二次世界大戦、70年以上前ではないだろうか。
日韓問題、「Black Lives Matter」運動、アフリカに長く続く貧困問題、現代には数多の問題が解決しないまま残っている。かつての植民地主義、戦後体制によるものが大きい。逆に言うと今まで社会問題として扱われていなかったものが、白日のもとにさらされつつあり、時代の潮目が強く変わってきているとも言いかえられる。
世界の動きに対し、我々はどうなのか。この国の「今」を見るにあたって、歴史の真実を知らず——修正された歴史を真実だと思っていないか? と、強く警鐘を鳴らすのが『教養としての歴史問題』(前川一郎:編著、倉橋耕平、呉座勇一、辻田真佐憲:著/東洋経済新報社)である。
2019年、立命館大学で開催された一般向けシンポジウム「なぜ『歴史』はねらわれるのか?―歴史認識問題に揺れる学知と社会」での講義をベースにそれぞれが大幅に加筆。質疑応答を基にした座談会を加えて出版したものである。シンポジウム自体も非常に盛況だったそうで、出版前から本の注目度も高かった。
都合よく歴史を捻じ曲げようとする「歴史修正主義者」がいかようにして、自分たちが信じる歴史を刷り込もうとしてくるのか? 日本の「炎上」含む現状、イギリスやドイツなどが過去とどう向き合っているのかという観点も踏まえ、我々の歴史認識について「学知」と「社会」の両面から、明快に示していく。
第1章では歴史修正主義がどうやって広まっていったのか。次の第2章では「植民地主義」の捉え方をコントロールしてきた戦後国際社会について触れている。第3章は世界中に植民地を持ったイギリスを例に取り、「加害」の歴史と向き合う難しさを扱っている。もちろんこの裏には、戦時中の日本が何をしたか、が隠れている。第4章では歴史学者の提言、第5章では歴史にはなぜ物語が必要なのか、大衆と手を取り合うことについて触れ、最後に座談会の章でまとめられている。どの章も大変読み応えがあり、自分の歴史に対する捉え方がいかにぼんやりしていたのか身にしみた。
歴史を語るのはタブー? 今我々の周りで何が起きているのか
本書の目的:歴史認識問題の現状を正確に把握し、未来を考えるきっかけを作る
という明言からこの本は始まる。この国で、歴史を語ることがタブーとなっている、との指摘には、誰しも思い当たるフシがあるのではないか。「徴用工問題」「あいちトリエンナーレ『表現の不自由展』」、私たちの身近に起こった歴史を基にした出来事に対し、それぞれの考えがあったとしても話題は出せない。実際今挙げた例を見て口をつぐみ、見て見ぬ振りをしたくなった人も多いのではないだろうか。
著者たちが歴史修正主義者と呼ぶ人々は、アカデミズムの世界よりも大衆社会、具体的には出版、SNS、テレビなどのメディアに存在している。大衆の身近なところで繰り返し自説を流布。語り口のわかりやすさと我が国の素晴らしさを正しく理解する、という快楽で絡め取り、愛国精神をあおっていく。その結果自分たちの都合の悪い歴史を「うやむや」にすることを試みているのだという。
その目的は何か? 思考の停止と、沈黙である。
歴史修正主義者の歴史観にとって不都合な史実を「うやむや」にすることで、歴史についての知識が十分でない者の思考を停止させ、沈黙させることで、自らのイデオロギーに基づく歴史観を大衆にじわりじわり拡げていくことこそが、最大の目的だからです。
そのあとに書かれた
「慰安婦」問題はなんとなくヤバそうだから、触れないでおこう(=沈黙)
この一言は、おそらく私含め、大多数の日本人がドキッとすることだろう。わかんないから、曖昧なところがあるから、面倒だから、ヤバそうだから……こうしてフタをして見ないフリをすることこそ、思うツボなのである。
「○○の真実」にご注意? ノンフィクション風の物語かもしれない
書店に置かれた「○○の真実~教科書に書かれていない歴史を暴く~」、と専門誌に載った「戦後政治における○○の再評価について」。どちらが身近で、手に取る可能性が高いだろうか?
歴史修正主義者は教育やメディア、政治の分野に広がり、大衆文化に浸透することで力を密かにつけてきた。「文化生産者による評価が重視される歴史」ではなく、「文化消費者による評価が重視される歴史」を評価軸に据えることに成功していると著者は言う。
後者は歴史小説や漫画、映画を指す。フィクションだと明言された映画を見て、これは史実そのものだと思いこむ人は少ない。しかし、歴史修正主義者の記述する歴史は、あくまで「歴史」として発表され、例えそこに著者の主張や思い込みなどが含まれていたとしても明示はされず、まさにこれこそが事実、正史といった顔で本屋に座っている。
またこれらはよく売れていて、専門家が書いた書籍よりずっと身近なのである。私は『日本国紀』の図書分類コードが「随筆」になっているとこの本で初めて知り、正直驚いた。
二度の大戦では、「プロパガンダ」という手法が盛んに使われた。服や映画、美術といった文化が戦争に利用された過去をご存じの方も多いだろう。歴史にはイデオロギーがまとわりつくものだが、だからと言ってすべてをこっちとあっちに分け、だからアイツらは敵でオレらは味方同士という、レッテル貼りの二分割で物事を語れるものでもない。しかしそれこそが歴史修正主義者の方法なのだそうだ。
本を読まなくなった時代に、歴史の知識をつけることには意味がある!
今は「一冊で○○がわかる本」「早わかり」などとついた、わかりやすく説明されている本が売れているそうだ。現代人には時間がない。読書量についてのデータも本には掲載されているのだが、2019年の文化庁のデータでは、1ヶ月に本を1冊も読まないという人は47.3%。1~2冊が37.6%、実に85%の人がほとんど本に触れていないという。ブックレビューを書く身としてもかなりの衝撃だった。忙しい人がそれでも本を読もうと努力し、結果早わかりに飛びつくのは致し方ないことだ。もしかしたらその本には「都合の悪い部分」がばっさり省略されている、むしろ、創作の物語だけが提示されているかもしれないのだ。著者、出版社、この本のファクトチェックはどうなっているか……そうした情報を照らし合わせる。そうしたリテラシーを大衆が身につけ、識者は大衆が納得できる「大きな見取り図」を差し出すことがこれから重要となる。
この20年ほどで、世の中は目まぐるしく変化した。SNSの誹謗中傷で人の命が失われる時代は恐ろしい。しかし、SNSで時代を変えている人々もいる。大きなうねりはたしかにある、未来を諦める必要はないのだ、と編著者・前川一郎氏は言う。希望を持つための現実的な手段のひとつとして、この本を作ったそうだ。読んだ人の心のどこかが「コトン」と揺れ動いてほしい、とあとがきで語っている。
「正しさ」はいつ何時も難しい。だからと言って思考停止も極論に飛びつくのも、おすすめできない。諦めないための第一歩を踏み出すために、この本が大きな助けになってくれるだろう。
文=宇野なおみ