廃墟になったラブホテルでヌード撮影!? 持て余す想いを受け止めるラブホテルを舞台に描かれる人々の性と生
公開日:2020/10/14
大人になって、驚いたことがいくつかある。子どものころ憧れた自由は、輝かしいだけのものではなかった。恋愛だって、楽しいばかりとは限らない。自由に伴う寄る辺なさと、恋の悲しみ、愛の煩わしさを抱え、見渡す限りの道なき未来を前にして、呆然と立ち尽くしてしまう──それは、『ホテルローヤル』(桜木紫乃/集英社文庫)に登場する人物たちも、同じではないだろうか。
八月の湿原は、緑色の絨毯に蛇が這っているようだ。
川が黒々とした身をうねらせていた。隙間なく生い茂った葦の穂先は太陽の光を受けて光っている。(中略)視界百八十度、すべて湿原だった。この景色のいたるところに、うっかり足を滑らせたら最後、命までのみ込まれる穴がある。
物語の舞台となるラブホテル「ホテルローヤル」は、眼下にそんな景色が広がる高台に建っている。オレンジ色の屋根が安っぽい建物は、営業をやめてから何年経つのかわからない。4月のある日、廃墟となったホテルローヤルに車で乗りつけたのは、短大を卒業してから13年間、スーパーの事務員として働いている加賀屋美幸と、その恋人である貴史だ。
貴史は、アイスホッケーの選手だったが、靭帯を損傷して引退した。最近は、美幸と同じスーパーの宅配運転手の仕事につき、「やり甲斐がない」とぼやいている。美幸は、挫折というドラマチックなできごとを語る男といると、自分も彼のドラマの一部になれるような気がしていた。だから、デジタル一眼レフカメラにのめり込んだ貴史に、「廃墟でヌード撮影をするのがあこがれだったんだ」と告げられて、いやだとは言えなかった。
新しい目標に高揚している貴史に請われ、美幸は撮影までの1週間で、3.5kgも体重を落とした。慣れはじめた空腹を抱え、廃墟にたどり着いた彼女は、貴史の指示にしたがって、撮影に臨むことになるのだが…。
本書の中には、美幸のほかにも、寺への支援維持のために檀家と寝る住職の妻や、ラブホテル経営者の娘、働きづめのホテル清掃員らの人生が見える。彼らを主人公とする7編をつなぐものこそが、ラブホテル「ホテルローヤル」だ。そういう意味では、このホテルローヤルこそが、この物語に欠かすことのできない主役だとも思えてくる。
ラブホテルで行われることはただひとつ、セックスだ。かつてはホテルローヤルも、その機能を果たしていたときがあった。身のうちに巣食う空虚を埋めたくて、持てあます想いをなんとか収める場所を探して、人々はホテルローヤルへと続く坂道を上る。そこで行われる営みは、滑稽だけれど悲しくて、虚しいのに愛おしい。それはおそらく、読み手であるわたしたちも、彼らと同じ理解を共有しているからだ──交わりのときは、いつか終わる。性の昂りも、人や街の盛りも、人の生命も、湿原に季節が巡り来るように、やがては平らかに戻ってゆく。
茫漠とした平地を自分の足で踏みしめていく日常は、そう簡単には変わらない。意識を変えてみたところで、日々は今と地続きで、歩き続けるうちに人は死ぬ。けれど、それを絶望や諦めでは終わらせないのが、桜木紫乃氏の書く物語だ。湿原に射す光が変われば、景色は違った姿を見せる。構成の妙でそれをやってのけるところに、桜木紫乃氏の凄まじさと、生きることに対するあたたかなまなざしとが感じられる。
第149回直木賞を受賞した本作は、2020年11月、波瑠主演で映画化も決定している。昨今の先行きの見えない世界や、それでも続く日常に辟易する心にも、新たな光を投げかけてくれる作品だ。
文=三田ゆき