なんか納得できないこと/巴奎依の社会不適号③

アニメ

公開日:2020/10/16

巴奎依
撮影=山口宏之

アイドルを卒業して何か変わったことは?と聞かれる機会が増えましたが、実は特にありません。

卒業故に生まれるドラマティックと言うものは意外となくて、今日も変わらず、昨日と同じ自分がいるだけなんですよね。
ドラマティックとは、無理くり作り出すものなのかもしれません。

その上で何かしら変化したことを絞り出せと言われるのなら、昔の自分が抱いていたであろう、感情の答え合わせを良くするようになりました。

どうも生きていく中で捨てなくちゃならないことが多すぎる人生だったので、私が私のまま生きる自己防衛のために、心を殺すことが少し得意になっていました。

そんなあの時殺した感情を本当はどうしたかったのか、どう感じていたのか、少し大人になった今、答え合わせをしているわけです。

そこで強く実感したのが一つ。
本当は、好きなものについて語ることが嫌いだったということ。

例えば、番組や取材で1番好きな曲や1番好きなアニメは?と聞かれたとき。
私はいつも、つい私の中の2番手をおすすめしていたし、「そもそもこれが1番と言えるほどに好きなものなんて、そんな簡単に見つかるわけないのに」と言う本音が、いつも喉元まで込み上げていました。

「良いモノはみんなで評価しよう」

生きていると当たり前にそのスタンスでいることを求められている気がします。
というか、その価値観の前提で話が進んでいくこの違和感。

待て待て待て。
私は大衆的というワードが大嫌いなのに。
評価されちゃ意味がなくなるモノもたくさんあるのに。

小説や映像、音楽、どのエンタメにしろ、心の底から好きなものには依存してしまうんです。
生き方に影響を与えたり、今日の行動を変えてしまったり。

その依存の仕方も好きの感情も私と貴方では形がまるで違うはずなのに、言葉を介すことによって、なんだか形が似てきてしまう気がして。

おすすめする際の言語選択にも、好きの表現技法にも、それらすべては特許申請されるべき神聖なもののはずなのに
どんどん影響を受けて、どんどん手垢がついた言葉を多用して愛を語る。

私はそれがたまらなく嫌いなのです。

だから凄いな、と思うんです。
好きなものを好きだと言えて、おすすめをおすすめだと公言できる人。

そういうふうに好きなものを共有し合ったほうが、きっと人生の幸福度は上がるのかもしれないと思いながら、
だけどどう足掻いても自分はそっち側の人間ではないので、憧れながらも圧倒的人間力の差を感じてしまい、悲しくなります。

誰にも見つかっていない、受け入れられにくいモノ達が、私はたまらなく愛おしいのです。

もしかしたらこれが、私のサブカルチャー精神、ポピュラーを嫌い、アンポピュラーを愛する根底の部分なのかもしれません。

ともえ・けい
1月5日、東京都出身。2012年よりA応P(アニメ“勝手に”応援プロジェクト)のメンバーとして活動をスタート。2020年8月2日に、A応Pを卒業。「DJサブカルクソ女」としても活動中。社会不適合者(自称)。

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