「いつまでこの街で暮らすのだろう」鬱屈した気分でいると、見知らぬアカウントからメッセージが…/アスク・ミー・ホワイ②
公開日:2020/10/26
写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。
「GEEN FOTO’S VAN MIJ MAKEN!」
困惑して、声が聞こえたほうを向くと、銀色のダウンジャケットを着た大柄の黒人男性が立っている。除雪車の作業員らしい。一応あたりを見回してみたが、僕以外には誰もいない。どうやら彼はこの僕に怒りをぶつけているようだった。
困惑した顔をしてもう一度、彼のほうを向くと、まだすごい剣幕で怒鳴っている。オランダ語なのか英語なのかわからないが、早口なので何を言っているかわからない。それにしてもなぜ除雪車の作業員を怒らせてしまったのだろう。
「撮影は許可されてないだってさ」
いきなり肩を叩かれて振り向くと、同僚のカンがいた。僕と同じオリガミという日本料理店で働いている韓国人だ。カンが一言、二言、黒人作業員に話しかけると、彼は顔をしかめたまま除雪車に乗り込んでしまった。
「彼、自分が撮られたんだと思ったらしいよ」
「僕はただ雪を撮ってただけだよ。それに何でカメラを向けられたくらいであんなに怒るの?」
「Een vervelend misverstandだね。お前もいい加減にオランダ語くらい覚えろよ」
そう言ってカンはいつもの自慢げな顔をして見せた。元々の細い目を余計に細めるものだから、ほとんど目を瞑っているような表情になる。彼なりの嫌味なのだろう。そんなに日本人が嫌いなら、わざわざ日本料理店で働かなければいいのに。
「Een vervelend misverstand」の意味も説明もせずに、カンは笑顔で「ヤマト、こんな雪の日に買い物か」と話題を変えてきた。
正直に「家の食材が切れちゃったんだよ」と答える。
「カンはどうしたの?」
全く興味はなかったが一応聞いてみる。
「恋人の誕生日なんだ。アジアの食材はここが一番品揃えいいから、何か作ってあげようと思ってさ。ヤマト、新しい恋人は見つかった?」
カンは嬉しそうにまた目を細める。やっぱり聞かなければよかった。「うるさいな」とカンの胸元を軽く叩く。冗談のように言ったつもりだが、僕の憎しみが悟られてしまったかも知れない。日本語で小さく「どうせオランダ人には相手にされなくて中国人の彼女なんだろ」とつぶやく。
彼は韓国の延世大学を卒業後、就職難のソウルを抜け出してバックパッカーになり、ヨーロッパを転々とした後でオランダにたどり着いた。生まれた国で成功できなかったという点では僕と同じはずなのに、やたら自慢ばかりをする。「延世大学は日本の慶應大学と同じレベルなんだよ」という話なんて何度されたかわからない。
それでも彼を邪険にしきれないのは、僕にとって貴重な知り合いの一人だからだ。サクラと離れたことをきっかけに、彼女を通じた交友関係は一気に消えてしまった。
大嫌いだった中学生の頃を思い出す。わずか四十人足らずのクラスメイトから友だちを探せと言われて、いつも途方に暮れていた。机が近くて仕方なく一緒に給食を食べていた大田くん。通学班が一緒というだけでやけに馴れ馴れしかった千代田さん。一人ぼっちになりたくない一心で何とか話を合わせていた。
今の生活はそれに似ている。大して気が合わない人々と、無理やりにでも友だちごっこをしないと孤立してしまう。カンの言う通り、オランダ語でも話せれば別なのだろうか。だけど、それよりも先に英語だ。オランダに来た頃よりはだいぶ上達はしたけれど、まだ英語が流暢な人々の輪には緊張してうまく入れない。その意味で、韓国語訛りのカンの英語は、僕にでも聞き取りやすくてありがたかった。
カンと別れて、店内のスーパーを物色する。カートをぶつけたか何かでアラブ系の女性と白人の男が大声で口論をしていた。こんなことは日常茶飯事のはずなのに、さっきの黒人の怒鳴り声を思い出して嫌な気分になる。
海外で暮らしていると、時に日本では経験しなかったような理不尽さに遭遇することがある。理由もなく舌打ちをされたことは一度や二度ではないし、スーパーやレストランで心底嫌そうに接客されることも珍しくない。
ニンジン、ジャガイモ、ナスなど必要な食材を買い込む。本当はディルクに行ったほうが節約になるのだが、品質が心配でついアルバートハインを選んでしまう。納豆など日本からの輸入食品は概して高いが、醬油と豆腐が安いのはありがたい。会計を済ませて外へ出ると、相変わらずの寒さだったが、雪はもうほとんど止んでいた。例の除雪車も姿を消している。
幾重にも重なった灰色の雲の隙間からは、うっすらと太陽が覗いていた。目を細めながら、いつまでこの街で暮らすのだろうと心許なくなる。
おそらくフリーランスビザは更新できるだろうが、サクラが去った今、本当ならばアムステルダムに固執する理由は何もないのだ。日本へ帰ってもいいし、他の国への移住を考えてもいい。
僕は何に縛られてこの場所にいるのだろう。そんなことを思いながら自転車のチェーンを外していると、ポケットからiPhoneが落ちてしまった。何とかうまくキャッチしようと思ったものの、無残にも路面へと自由落下していく。
せめて雪の上に落ちればよかったものを、運悪く歩道の隅に液晶画面が当たってしまったらしく、細かなヒビが入ってしまった。さっき怒鳴られたことといい、今日は本当についていない。やっぱり悪い予感ほど当たる。
「やっちゃったな」と独り言を吐きながらスリープボタンを押すと、起動は問題なくできるようだった。LINEには二件、Facebookには一件の新着メッセージが来ている。LINEはニュースとタカラッシュからの定期配信だったが、Facebookには「Kohei Suginami」という見知らぬアカウントからのメッセージだった。
「元気? ちょうど今、アムステルダムなんだけど、お茶でもしない?」
新手の詐欺かと訝しがりながらプロフィールをクリックしたら、そこにはほとんど忘れかけていた懐かしい顔があった。あのコーヘイか。本当に久しぶりにその名前を思い出した。
スギナミ・コーヘイは浪人時代の数少ない友人の一人だ。友人といっても、たまたま自習室の席が近くになった時に一緒に昼食をしたり、まれに映画を観に行ったりといった程度の関係だ。僕の二浪と、コーヘイの早稲田大学への合格が決まってからは、お互い気まずくて会わなくなってしまった。
もう十年近く前のことだから、今さら何のわだかまりもないが、あまりにも突然のことにびっくりしてしまう。何と返信しようかと迷っていると、Facebookを通じてコーヘイから電話がかかってきた。
「ヤマトくん? オンラインだったから電話しちゃった。Facebookでアムステルダムを検索したら、ヤマトくんがヒットしてびっくりしたよ。僕は明日までいるんだけど、よかったらお茶でもしない?」