旧友をバーまで送ったら、そこで待っていたとある男性にいきなりキスされて…!?/アスク・ミー・ホワイ④
公開日:2020/10/28
写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。
気付くと時刻は17時45分を回っていた。コーヘイはソウと18時に待ち合わせをしているという。チャットを見せてもらうと、場所はここから歩いて十分程度のバーだった。そろそろ店を出た方がいいだろう。コーヘイは遠慮したが、ソウなる人物を一度見てみたいと思って、その場所まで送っていくことにした。
僕がこんな好奇心を発揮したのはいつぶりのことだろう。コーヘイの思わぬカミングアウトに、少し浮かれていたのかも知れない。二人分のコーヒー代である9ユーロをPINカードで払う。コーヘイが払うと言ったが、これくらいは見栄を張りたかった。
カフェを出ると、外はまだ信じられない寒さだった。
ダウンコートや手袋で身体の寒さは防げるものの、吹き付けてくる風のせいで顔が凍傷になりそうだ。日本よりだいぶ緯度の高いオランダは、冬はとても日没が早い。暗くなりかけた雪道をコーヘイと共に歩く。
自転車を押しながら、ふと彼を抱けるだろうかと想像してみた。ハグくらいはたやすい。目をつぶりながらならキスくらいはできるかも知れない。だけどその先は? 想像するのが怖くなって思わずコーヘイとは反対の街路のほうを向く。
「こうやって実際に人と会う前って緊張するの?」
「うん、毎回すごく緊張するよ。今度こそ運命の人だったらどうしようってね」
コーヘイは少し恥ずかしそうににやける。その表情がとても野性的に見えた。
指定された赤灯地区のワルムス通りは、ゲイ向けの施設の多いエリアのようだった。パン屋やピザ屋のすぐ隣にレインボーフラッグを掲げたカフェやバーが建ち並んでいる。ボンデージファッションの専門店を通り過ぎるときは、コーヘイではなく僕のほうが興味深く店内を覗き込んでしまう。
少しずつ日が暮れ、アムステルダムが街灯の柔らかい色に染められていく。
通りには、当たり前に手をつないだり、キスをする男性同士や女性同士のカップルが目立った。もっとも、アムステルダムではエリアに関係なく見慣れた光景だ。僕自身、同性愛者に偏見はないと思っていたが、こうして堂々としているゲイやレズビアンを見ると、今でもたまに面食らう瞬間がある。
もっとも、僕とコーヘイも他人からはゲイストリートを並んで歩く仲睦まじいカップルにしか見えないのだろうけど。
「あのバーじゃないかな?」
グーグルマップが示していたのは、書店を改装したブックカフェのような佇まいの店だった。レイジンという白い看板が掲げられた店の中では、数組の男女が本を読みながらコーヒーを飲んだり、軽食を食べたりしている。どうやらゲイ専用の店というわけではないようだ。
「お店の名前ここであってるよね? じゃあ僕は帰るよ。楽しんできて」
「ヤマトくんもちょっと会っていく?」
もともと顔くらい覗いていくつもりだったとは言わずに、素っ気なく「そうだね」と返事をした。さっきのアプリには顔を載せていなかった人物だから、もしかしたら顔見知りという可能性もある。それくらいアムステルダムの日系コミュニティは狭い。
全く見知らぬ人物でも、コーヘイがどんな男と会うのか興味があった。意気投合した場合、このまま二人はホテルかどこかへ流れるのだろう。
思わず、生々しい想像をしてしまう。
当のコーヘイは至って冷静で、待ち合わせた男とチャットでやり取りをしていた。そして奥の席で深く帽子をかぶった男の前で足を止める。派手なグッチのスウェットと、ラフなキツネのパンツを身につけていた。
「あれ? 二人? 俺、二人相手できるかな」
そう言いながら、にこりと微笑む。その顔には見覚えがあった。少し痩せていて、うっすらとヒゲも生やしているが、たぶんあの彼だ。名前だけが咄嗟に出てこない。
「現地の友だちに送ってもらったんです。すぐそこでお茶してたんで」
コーヘイが説明しながら、ダウンジャケットを脱ぐ。しかし彼が誰かまるで気が付いていないようだ。
「そうなんだ、ありがとね」
男は急に立ち上がると、僕の首に手を回し、いきなり軽いキスをしてきた。
一瞬のことで、拒む隙さえもなかった。
それどころか何が起きたのかもわからなかった。
柔らかな唇を介して、アルコール臭い息が、口の中に入り込んでくる。目の前に押し付けられたその顔を見ると、視点が定まっていなくて、頰もだいぶ赤い。この街ではいたるところで充満しているマリファナの匂いではなくて、代わりにミカンと桃を混ぜたような甘い香りがした。
「彼、ゲイじゃないんですよ」
コーヘイが間に入って、やんわりと彼の身体を僕から離してくれた。男は一瞬驚くと、顔の前で手を合わせて本当に申し訳なさそうに謝ってくる。
「ごめんね、俺いつもはこんなキャラじゃないんだよ」
しっかりと直視できなかったが、驚くほど整った顔であることがわかった。くっきりした二重の大きな瞳と、整った小さな鼻に、少しだけ高い位置にある頰骨。目が合ったのはたった一瞬なのに、その顔が鮮烈に目に焼き付く。
「大丈夫です。じゃあ俺はこれで」
反射的にこの場所を立ち去らなくてはいけないと思った。コーヘイに挨拶もせずに、慌てて店を飛び出した。まだ心臓がバクバクしている。顔が赤くなっているかも知れない。家に帰るまで待てなくて、少し歩いたところにあったマクドナルドに入った。ホットコーヒーだけを注文して、窓際のカウンターに設置された堅い椅子に腰掛ける。そして、ヒビの入ったiPhoneを取り出して、インスタグラムを開く。
アムステルダムに関係のありそうなアカウントは片っ端からフォローしていたが、すぐにその写真は見つかった。
港くん。
顔を隠していたさっきの写真とは違って、きちんと日に焼けた顔をさらしていた。アムステルダムの運河で、友人らしき金髪の女性やアラブ系の男性と、一緒にビールを飲んでいる。ハッシュタッグにはしっかり「#Amsterdam」と入っていたが、それが旅行で一時的にこの街へ来たのか、それとも長期滞在かはわからなかった。しかしさっきの雰囲気だと、どうやら本当に彼はこの街に住み始めたらしい。
あの噂は本当だったのだ。