知らない番号からの着信。掛けてきた相手はまさかの…!?/アスク・ミー・ホワイ⑥

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/30

写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。

アスク・ミー・ホワイ
『アスク・ミー・ホワイ』(古市憲寿/マガジンハウス)

 吹雪は止んで、空は気持ちいいほどの青空だったが、まだ気温は氷点下のままだ。まっすぐ家に帰ろうとしたはずなのに、何を考えたか自然と足が赤灯地区へ向かっていた。その間も何度かiPhoneを確認してしまうが、新しいメッセージはない。

 街を歩いていれば、また港くんに会えると思ったわけではない。彼にどうしても会いたいというよりも、少しくらいのハプニングが起こってもいいのではないかと変な期待を抱いてしまったのだ。

 アムステルダムの赤灯地区は、世界的に有名な風俗街である。飾り窓ともいうが、通りに面したガラス張りの建物で、風俗嬢たちが客を待っていた。彼女たちは国が認可を受けた自営業者で、場所を借りて堂々と売春をしているのだ。

 サクラと付き合っていた頃、一度だけ来たことがある。正確に言えば、彼女の浮気が発覚した夜、やけくそになって赤灯地区へ向かった。

 いい思い出ではない。赤灯地区を何周もして、とびきりの美女を選んだつもりだった。金髪が腰まで伸びた、青い目をした美人。胸も大きかった。絵に描いたような「白人」とセックスをするなんて初めてだ。緊張しながら50ユーロを払うと、途端に無表情になり、キスをするには40ユーロ、胸を揉むには30ユーロが追加で必要だと交渉してきた。僕が困惑して断ると、ランジェリーを下だけ降ろし、ブラジャーをつけたまま、指先で手招きをする。「どうぞご自由に」という意味だろうか。

 何とか気分を盛り上げようとするが、何をしても彼女は無表情のままだ。努力の末、何とか挿入こそはできたが、射精まではいかずに時間切れになってしまった。彼女は冷めた目つきのままシーツを片付け始める。早く出て行けという合図だろう。

 僕は惨めな気持ちで服を着て、そそくさと部屋を出た。50ユーロしか払わなかったことで気分を害したのか、アジア人に対する差別意識があったのか今となってはわからない。とにかくそれ以来、飾り窓で女性を買おうなんて思ったことはなかった。

 赤灯地区といっても、風俗店は一ヶ所に密集するのではなく、いくつものブロックに分散している。昼間は観光客も多く行き交うエリアだ。客は夜間のほうが多いのだが、昼間でも窓に立つ女性は多い。

 しかし誰もが美女というわけではない。窓の向こうをちらちら見ながら歩いているが、無様に太りきった腹を惜しげもなく見せる中年や、死期の近いカモシカのような貧相な女たちが視界に飛び込んでくる。

 変な気を起こさないで家に帰ろうと思ったとき、巨体のアフリカ系女性と目が合った。胸以上に腹が大きく突き出ていて、色気のかけらもない。前髪をそろえた黒髪のボブは、実家の母親を思い出させた。それなのにその女性から笑顔を向けられた瞬間、発作的に「いくら?」と聞いてしまったのだ。彼女は10ユーロ札七枚を見せてきた。70ユーロということだろう。あの美人より20ユーロも高い。それにもかかわらず「じゃあお願いします」と言ってしまった瞬間に電話がかかってきた。

「ヤマトくん? ビザとか詳しい?」

 知らない番号からの着信で、名前さえも聞かなかったのに、すぐにその声だけで、それが港くんだということがわかった。

 

「わざわざ来てもらっちゃってごめんね」

 指定された801号室のインターフォンを押すと、洗い立ての濡れた髪に、バスローブを羽織った港くんが部屋から出てきた。

 失敗したと思った。目の前にいるこの男性は昨日、コーヘイと一夜を共にしただろう人物なのだ。そもそも、彼が男好きというのはネット上でも散々噂されていた。

 アムステルダムの地理にそれほど詳しくないだろう港くんのことを慮ってホテルまで来てしまったのだが、これでは彼の誘いに乗ったようなものだ。オランダの法律ではわからないが、今ここで港くんに襲われても、日本だったら合意と片付けられるのではないか。

 おそらく僕はあまりにも緊張した面持ちで立っていたのだろう。港くんはようやく合点がいったという具合に、手を叩きながら大声で笑い始めた。

「ごめんね。君のことを襲ったりしないから安心してよ。確かに俺はゲイだし、君の友だちとセックスしてから二十四時間も経ってないけど、男なら誰でもいいってわけじゃないから。君も、女の子だからって、誰とでもできるわけじゃないでしょ」

「ちょうど電話をもらったとき、まさにそんな女性といました」

 そう返答をしながら、電器屋で働いていたとき、同僚たちが「誰とならやれる」「あいつはやれない」というゲスな話をしているのを思い出していた。言われてみれば、ゲイならば男全てを性的好奇心で見ているというのは差別もいいところだ。

 もう一度ゆっくりと港くんの顔を見る。耳にかかるセミロングの黒髪、整っているのに子犬のようにも見える二重の目、小さな口に、恐ろしいほど小さな顔。男に全く興味がない僕が見てもこんな美しい人間が、一般人を相手にする理由がない。さっきまでの自意識過剰が途端に恥ずかしくなる。

 港くんはただ僕に、事務的な手助けを求めているに過ぎない。彼は柔和な笑みを浮かべながら「よかったら入って」と僕を部屋へと促す。

 大きな部屋には、横になれるくらい長いソファとテーブルセットが置かれていて、奥の部屋はベッドルームになっているらしい。大きな窓からは、遠くまでアムステルダムの市内が一望できた。冬至の時期に比べてだいぶ日は伸びたが、街はすっかり夕暮れに包まれている。

 襲われるわけではないとわかったら、次は芸能人と話しているという緊張にさいなまれる。しかしさっきの誤解と違って、その緊張に気付かれてしまうのは恥ずかしい。努めて平静を装う僕がようやく絞り出したのは、あまりにもつまらない言葉だった。

「すごい部屋ですね。ホテルに住んでるんですか?」

「先週まではワルドルフにいたんだけど、一日15万の部屋に泊まり続けるのはばからしいかなと思って、引っ越してきたの。ここならキッチンもついて、一泊5万しないし」

 それでも僕の一ヶ月の家賃よりも高いと思ったが、口には出さなかった。

 大きくシュプリームと書かれた真っ赤なスーツケースの上に、乱雑に服が積み重なっているのが見える。次の言葉を考えていると、港くんはおもむろにバスローブを脱ぎ捨てて、服の山から薄いピンク色をしたマルジェラのフーディーと黒いデニムを選んで、さっと身につける。一瞬のぞいた身体はよく筋肉がついていて、今でも彼が熱心にトレーニングに励んでいるのがわかった。

<第7回に続く>