「このまま帰るのもったいないよね」成り行きで観光に誘われたヤマトは、二人で街に…/アスク・ミー・ホワイ⑪
公開日:2020/11/4
写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。
分厚い雲が東へ流れ、この時期にしては明るい日差しが街を照らしている。
「せっかくハーグまで来たんだから、このまま帰るのもったいないよね」
「観光していきます? 絵画が好きならマウリッツハイス美術館とか、エッシャー美術館とかあります。あとちょっと落ち着きたいならトラムに乗ってデルフトって街に行くとか。Uberかタクシーでもすぐです」
「マウリッツハイス美術館って、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』があるところでしょ。ハーグはこの前ちょっと回っちゃったから、デルフトに行ってみたいな」
デルフトという名前がすぐに出てきたのは、サクラと行ったことがあるからだった。デルフト陶器に興味があるという彼女に誘われて、レンタカーを借りて工房まで行ったことがあるのだ。当時は全く陶器に興味のなかった僕は、ただ彼女のあとを着いて行くだけだった。ただ、教会や広場の雰囲気は覚えているから、港くんの案内くらいはできるはずだ。
「Uber呼びますか?」
「せっかくだからトラムで行こうよ。何だかんだでアムスは日本人多いから、あんまり使ったことないんだよね。乗ってみたい」
港くんが楽しそうにすぐそばの駅を目指す。彼は、世間のイメージよりもずっと無邪気な人なのかも知れない。
デン・ハーグ中央駅のサービスセンターで一日券を買って、トラムの駅を目指す。グーグルマップで確認したらスプリンターのほうが早いと言われたが、港くんにとってはトラムのほうが楽しいだろう。
まるでバス停のような簡素な駅で待っていると、行き先表示に「Delft Tanthof」と書かれた一番線がやって来た。赤い3両編成の車輌は、アムステルダムのトラムよりもかわいらしく見える。
平日の昼間だったが、半数ほどの座席が埋まっていた。大きなベビーカーと共に乗るヒジャブを着用した女性、スキニーのブラックデニムを穿いて長い足を組んで大きなヘッドフォンをつけたアフリカ系の若者、大きく出た腹をコートに隠した白髪の男性たちが同じ車輌に乗り合わせていた。僕たちは連結部近くの座席に腰を下ろす。
同じ色のレゴブロックで作ったような街をトラムは進んでいく。数分おきに停車する駅で、乗客が少しずつ入れ替わっていく。大きなヘッドフォンをつけた若者は官庁街で降りていった。港くんは子どものように車内をきょろきょろ見回している。電車に乗ったこと自体、久しぶりなのかも知れない。
「みんなさ、どこから来て、どこに行くんだろうね」
「駅から駅へ、じゃないんですか」
「確かにそうだけどさ。目的地があるから電車に乗るんだよね。ねえ、俺はどこへ行けばいいと思う?」
港くんは窓枠に手を当てて、興味深そうに外の景色を見ている。きっと港くんは、答えなんて求めていない気がして、僕もただ窓の外を覗いた。市街地を過ぎたトラムからは、大きな森が間近に確認できた。オランダの森は威圧感があまりない。穏やかな木漏れ日がトラムの窓に反射して、港くんの横顔に曖昧な影を落とす。
どこから来て、どこへ向かうのか。僕自身はどうだろう。この国で日本食の需要が減ることは当面なさそうだから、飲食の仕事は続けられるのだろう。だけど今以上にメグロさんと馬が合わなくなったら、店を変えることも考えないとならない。そこまでのバイタリティが僕にあるだろうか。
しかもどうせアルバイトと変わらない下働きの生活だ。こんな毎日を一生続けるのかと想像すると、途端に絶望的になる。いくら社会保障が日本に比べれば充実していると言っても、今の平均1800ユーロの月給で、誰かと結婚をして子どもを持つイメージは沸かない。
それは日本へ帰っても同じだ。むしろアジア人であることが何の特徴にもならない日本での仕事探しはもっと大変かも知れない。オランダに住み始めて三年になるが、僕は一体、この国で何を手にしたのだろう。
「ヤマトは日本で何してたの?」
「家電量販店の社員です」
正直に答えたことを一瞬後悔した。港くんに比べると、何てつまらない仕事だと思ったからだ。入りたくて入った会社ではない。出版社を第一希望としながらもことごとく書類選考で落とされ続けた。大学名を記載しないエントリーシートの企業も多かったが、何か見えない選考基準でもあったのだろうと疑っている。
結局、通年採用をしていた家電量販店に潜り込むしかなかった。世間でこれだけブラック企業問題が騒がれた後も、残業は月百時間を越えていたが、みなし残業制のため、手取りは月22万円に過ぎなかった。
そして何よりも耐えられなかったのは、同僚との品性に欠ける会話だ。休憩時間の間中、頭の悪そうな顔をした同僚は、数少ない女性社員に対する猥褻な妄想、風俗店でのくだらない武勇伝を話し続ける。僕は適当に話を合わせながらも、彼らと自分が全く同じ社会階層に位置することが無性に苛立たしかった。
「じゃあ、電化製品のこと詳しいんだ? 今度、パソコンの設定お願いしていい?」
「もちろんそれくらいなら喜んでしますよ」
「まじ助かる。iPhoneのバックアップとか機種変とかもできる?」
「簡単です」
「ちょっと。そんな大事なこと、もっと早く教えてよ」
家電量販店に勤めていたことがこんなに喜ばれたのは初めてだった。港くんの話では、芸能界にはテクノロジーに弱い人が多く、ただスマートフォンを使えるだけの人が「iPhone芸人」としてもてはやされていたのだという。
機種変更のときにLINEのトーク履歴を引き継いだり、家にWi-Fi用のルーターを設置したり、Netflixと契約したり、誰でも当たり前にできると思っていたことが、どうやらそうではないらしい。
「ずっと一緒の番組に出てた司会者なんてスマホも使えなかった。電話とメールをするくらい。多分、寂しがり屋のくせになかなか、心を開いてくれなくてさ。でも、あの人だけはテレビでも俺のこと、最後まで守ってくれたんだよね」
その人が誰なのかを聞こうとしたとき、港くんが突然、車内の降車ボタンを押した。
「ここで降りよう。超きれいじゃない?」
トラムがちょうど、デルフト駅の一つ前の駅を出発しようとしていたときだった。急いでトラムから降りると、すぐに運河沿いに広がる整然とした街並みが目に飛び込んできた。どの家も統一感はあるのにカラフルで、まるで人形の国に迷い込んだようだ。
観光客の数も少なくて、アムステルダムのような雑多さは全くない。すっかり慣れてしまったマリファナの匂いも一切しなかった。広葉樹が等間隔に植えられ、それを冬とは明らかに違う確かな太陽光線が輝かせている。
「腹すかない? どっかの店入ろうか」
「それでもいいんですけど、一応サンドウィッチは持ってきてます」
恩着せがましいことをしていないか不安になりながら、遠慮がちに伝えた。だけど杞憂だったようだ。
「まじ? 早く言ってよ」
港くんは大げさなくらい喜んでくれた。今度はきちんと伝えてよかったと思った。下手をしたら、家まで持って帰って夜食になるところだった。「せっかくだから、景色のいい場所を探そう」という港くんに付いて、旧市街を目指す。