老害なんて言わせない! 日本史を彩る“くそじじいとくそばばあ”の底力に刮目せよ!
公開日:2020/11/5
「老害」という言葉が時折ネット界隈を賑わせる。一般的には自身の経験に凝り固まり傍若無人な振る舞いをする高齢者を指す言葉で、しばしば若者との対立が話題となることも。小生も若者……を自称する側であり、身勝手な老人にはいつも呆れてしまうのだが、もしもその強引さを前向きに活用したらどうなるか──? そんな貪欲かつ強かに歴史で暴れまわった老人たちの活躍をまとめた一冊が登場した。
『くそじじいとくそばばあの日本史』(大塚ひかり/ポプラ社)は、歴史の裏表で活躍した老人たちを紹介している。「くそじじい」に「くそばばあ」とはなんとも挑発的なタイトルなのだが、もちろんただの罵倒ではない。確かに「くそ」といえば一般的に糞便や劣るもの、つまらぬものを示す言葉だが「かぐわしいもの、奇しきもの、霊妙なもの変わったもの」などの意味も含むものらしく、本書では肯定的に捉えている。
とはいえ、ただ長生きなだけでは社会的な、また人としての理想とはされない。過去において老人はやはり弱者であり、余裕のない社会では冷遇されていた。そんな時代の老人がなぜ活躍できたのか。そこでは「くそじじい」もしくは「くそばばあ」であることが重要なのだ。中でも小生が気になるのは、日本を代表する僧侶の一人「一休宗純」である。現在も一休さんの通称で、とんちの達人としても知られているが、史実では奔放な性格の食わせ者として知られる。
本書では一休を「エロじじい」として紹介。僧侶でありながら飲酒や女性との関係を持つなどは当然の如く行っていたといわれており、極めつきは77歳にして20代後半の女性と関係を持ち続けたのだ。これだけでも小生は確かに「このくそエロじじいがぁっ!」と僻み根性丸出しになった。だが、それでもなお当時の人々からは尊敬される人物だったのである。その説法や歌人としての姿に説得力があったのだろう。それを考えるとやはり大人物なのだ。なるほど、本書における「くそじじい」の捉え方がわかる。
仏教界の「くそじじい」には、もう一人凄まじい人物が存在する。なんと81歳にして政界へと躍り出た「天海和尚」だ。徳川家康の死後、その呼び名(神号)を「東照大権現」と定めてから、108歳で死ぬまで、幕府に影響を与え続けていた。既に世は3代将軍家光の時代である。現在の日本は少子高齢化が進んで問題とされているが、今ほど高度な医療も受けられない中でそんな高齢者が活躍できるというのは、僧侶の持つ知識と経験が重んじられたと考えられる。
さらに言えば、2代将軍秀忠と3代将軍家光から見れば天海は、それぞれ祖父曽祖父世代であり、かえって素直に話を聞けていたのではないかと本書は推測。「親子関係はダメでも孫と祖父母はうまくいくようなもの」とたとえている。しかし、こうなるともう天海は仙人のようにも思え「くそじじい」とは言い難くなる。昔から「天海=明智光秀」なる伝説があり、その印象から小生は彼を怪人物として想像していたのだが、その認識を改めるべきか。
本書では彼ら以外にも、柴田勝家の最期を記録した身分ある老女や80歳過ぎで『古語拾遺』を編纂した斎部広成、平安時代にアンチエイジングを駆使して45歳でも20歳にしか見えなかったという源倫子など、歴史の陰日向に足跡を残した老人たちの活躍がまとめられている。その秘訣は、常に学び向上心を忘れなかったからではないだろうか。
小生は断言したい。「学びを止めた時から老化は始まる」と。10代20代の若者と話すと様々な違いを実感させられるが、過去にしがみつくのではなく、やはり今を知ることこそ、老害化防止の第一歩だとも思う。
文=犬山しんのすけ