瞑想も「量より質」が大事! 1日10分の瞑想を毎日続けてみよう/頭を「からっぽ」にするレッスン③
更新日:2021/6/28
ビル・ゲイツも絶賛! 読みながら実践できる「瞑想」と「マインドフルネス」の入門書です。毎日10分間、頭を「からっぽ」にする時間を作ってストレスを解消しましょう。誰でも簡単に実践できる心のエクササイズ「10分間瞑想」をご紹介します。
10分からはじめてみる
マインドフルネスと10分間瞑想の関係を理解するのは必ずしも簡単なことではありません。そこでこんなふうに考えてみてください。車の運転を習っているところを想像してみるのです。きっと、最初は混みあった幹線道路ではなく、静かで交通量の少ない田舎道を目指すでしょう。どちらでも運転はできますが、前者よりも後者のほうが運転を学ぶには適しています。マインドフルネスも同じことです。マインドフルネスはどんな状況でもどんな目的にも利用することができますが、そのスキルを学ぶには、瞑想がもっとも適しています。おもしろいのは、日常生活にマインドフルネスを取り入れることに自信がついた後も、きっと毎日少しの時間を瞑想にあてたくなることです。それは、どんなに運転が上達しても、静かな田舎道を走ると、幹線道路では決して味わえないような安らぎや爽快感を得られるからです。そのうえ、周囲に目をやり、景色を楽しんだりする時間的・空間的な余裕も与えてくれます。
10分間瞑想とマインドフルネスの区別はたいして重要でないように思えるかもしれないし、ふたつが同じ意味で使われていることも少なくありません。けれども、荷物をまとめて僧として人生の再スタートを切るつもりでもない限り、両者の区別はかなり大切です。なぜなら、山の中の道場で暮らしているのでない限り、座って、正式な体系化された方法で瞑想する時間はつねに限られているからです。「自分には時間がない。忙しいし、仕事は多いし、ストレスは溜まってるし!」と言ってくる人はたくさんいます。でも、より広い文脈に目を向け、どこで何をしていても心を養い鍛えることができると考えれば、がぜんできる見込みが湧いてきます。少なくとも、現代の生活におけるあらゆる義務や仕事とも両立できそうに思えるはずです。この本がきっとあなたにとって貴重な手引きになるのもこのためです。現代社会で生活を続けながら、毎日のスケジュールに入れられる程度の時間で瞑想をして、それで変化を起こせる方法を示すからです。また、「マインド・トレーニング」や「マインドフルネス」という大きな概念を利用して、日々の生活体験を変える方法を示すからです。
世の中の多くのことと同様、瞑想も「量より質」なのです。まずは10分からはじめましょう。それが簡単にできて、もっとやりたいと思い、そうする時間があるなら、すばらしいことです。とはいえ、一日10分だけでもたくさんのメリットがあります。私がこれまで見聞きしてきた多くの実例を無視するとしても、今では毎日短時間の定期的な瞑想がもたらす健康上の効用を裏づける科学的証拠がたくさんあります(本書の「付録」ではこれらについてまとめて紹介しています)。
「からっぽ」とは? 幸福とは?
マインドフルネスがどこで何をしていても「今、ここ」にいられる能力であり、10分間瞑想がそのスキルを学ぶベストな方法だとすると、「からっぽ」とはその結果得られるものと考えられます。「からっぽ」のかわりに「幸福」という言葉を使いたがる人も多いかもしれません。「幸福」という言葉の問題は、幸福という感情と混同されがちなことです。ただ、勘違いしないでください。楽しんだり笑ったりすることは人生のすばらしい一面です。それらをより多く体験したいと思わない人はいません。でも、いつもそうとは限りません。人生にはいろいろなことが起こります。いいことばかりではありません。人生には困難やストレス、動揺や苦痛がつきものであり、どれだけ目をそらそうとしてもそれは変わりません。状況や気分に左右される一過性の幸福は、短すぎ、不安定すぎて、持続的な落ち着きや深い理解を与えてはくれません。
だから私は「からっぽ」という言葉を選びます。これは、その時の一時的な感情がどうあれ、つねに心の底にある落ち着きや充実感、揺るぎない満足感をあらわしています。「からっぽ」は表面的な感情に左右されません。たとえ悲しみや怒りの中にあっても、喜び笑っている時と同じようにはっきりと感じられるものです。本質的には、どんな思考が渦まいていても、どんな感情を抱えていても「平気でいられる」ということです。たとえ瞑想がまったくはじめてでも、いい気分になれることが多いのはこのためです。笑いころげたり、踊りだしたくなることは(普通は)なくても、心の底にある充実感に、どんなことも平気だと自然に思える場所に触れた感覚をもたらしてくれるからです。これには人生を一変させるほどの効果があります。
この「からっぽ」と「幸福という感情」の区別は重要です。私たちはなぜか、幸福こそが人生のあるべき状態であり、そうでなければ何かが間違っていると思い込んでいます。この思い込みに基づき、私たちは肉体的にも精神的にも感情の上でも、不幸の原因に抵抗しようとします。ものごとがややこしくなるのはたいていそこからです。毎日が幸福という感情を追い求め、それを維持しようとする終わりのないレースのように感じられ、人生が苦役のように思えてきます。何か新しい体験がもたらす一時的な高揚感や快感に夢中になり、やがては四六時中それを自分に与え続けなければならなくなります。それが食べ物であれ、酒やドラッグや衣服や車であれ、人間関係であれ、仕事であれ、はたまた田舎の静けさやのどかさであれ、幸福がそれらに左右されるようになったら、泥沼にはまったも同然です。それがもう得られなくなったらどうなりますか? 興奮が冷めてしまったらどうなるのでしょう?
多くの人にとって、全人生がこの幸福の追求を中心に回っています。けれども、本当に幸せな人がどれだけいるでしょう。つまり、頭がからっぽになったことをたしかに感じられている人がどれだけいるでしょうか。次から次へと何かを追い求めるやり方は、からっぽの状態をもたらしてくれたでしょうか。私たちは一時的な幸福を追い求めて走り回り、頭の中でしゃべり続けています。そのせいで、いつもそこに存在し、ただ気づかれるのを待っている自然な「からっぽ」がその騒音にかき消されていることにさえ気づきません。