可愛い人として生きられない/巴奎依の社会不適号⑨

アニメ

公開日:2020/11/27

巴奎依
撮影=山口宏之

何かに当てはめて、カテゴライズされることが、あまり好きじゃなかったりします。

あの子はこういう子だよね、この子はこんな子だよね、と勝手に評価されること。

カテゴライズする側の人間の知識も経験値も、どのくらいのものか分かったものじゃないのに
その人の中にちょっとだけある知識やジャンルのカテゴリーに当てはめられるのが、とても嫌なんです。

だってめちゃくちゃ知識が浅い人だったら、ムカつくじゃないですか。
そうでなくてもなんか嫌だけど。

今で言うと、地雷系とか量産型系とか流行っていますが
それだって一口に言っても、それぞれ形がちょっとずつ違っているはずだし
何かを愛する愛し方だって絶対違うはずだから、人をカテゴライズするのもされるのも何だか苦手なんですよね。

とはいえ、つい無意識に当てはめてしまったりしてしまいますよね。
私もついつい人間をカテゴライズ化してしまいます。

周りに1人くらいいませんでしたか?
何をしても可愛くて、可愛さで世間に許されている人。

私はそういう人を、可愛いの星に生まれている人とカテゴライズしてしまっています。

そんな可愛い人に憧れ続ける人生でした。

勘違いされやすいのですが、私はそっち側の人間ではなかったんです。

むしろ、可愛くて常に人に囲まれている幸せそうな人を見ては劣等感を感じる側。
私は主人公ではなかったんです。

外見の魅力だけじゃないその可愛い人に私は一度もなれなかったし、何がそんなに可愛くさせているのか知りたかった。

以前、信頼している人に
可愛い人として生きられないんだねと言われて、ハッとしたことがあります。

私自身、可愛いの星に生まれている人に憧れていると思っていたけれど
本当は、骨董品や絵画を見たときに漏れるような、そんな可愛いを求めていたんです。
純度の高い、不純物の混ざっていない可愛いを。

私が可愛い人として生きられなかったのは、自己防衛であり、逃げだったんです。

可愛いの星の人に向けられる言葉には、よく見ると不純物が混じっていることに気が付いて
それが怖くて遠ざけたから、可愛いで許される環境に身を置けなかった。

今まで私が、この人は可愛いから世間から許されていると思っていた人は実は、可愛いから許されているのではなく
不純物の混ざった言葉や裏のある褒め言葉を躱して、正しい目で選んで、翻弄されないように思考しながら生きているからだったんです。

やっぱり、可愛いとか好きとかそういうのは、純度が高くないとそれは相手のために向けた言葉ではなく、己のために使う言葉だから、タチが悪いというか恐ろしい。

こんなふうに言葉の純度なんて気にならない性格だったら、もっと生きやすかったのかもしれません。

ともえ・けい
2012年よりA応P(アニメ“勝手に”応援プロジェクト)のメンバーとして活動をスタート。2020年8月2日に、A応Pを卒業。現在、インターFMにて毎週土曜28:30〜「DJサブカルクソ女の音楽解体新書」にてDJ番組を担当するなど、「DJサブカルクソ女」としても活動中。社会不適合者(自称)。

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