トイレットペーパー登場前、お尻はなにで拭いていた? ウンコから考える「生きること」
公開日:2020/12/14
人は誰でも生きるために食べる。食べると、出す。「出す」と表現をぼかしているのは、やはり「ウンコ」と直接的な単語を用いることに抵抗があるのかもしれない。しかし、考えてみれば、「ウンコ」は汚物ではない。生きる証である、ともいえそうなのだ。
『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか――人糞地理学ことはじめ(ちくま新書)』(湯澤規子/筑摩書房)は、法政大学教授である著者が、ウンコの視点から環境や経済、世界を語っている、アカデミックな1冊。巻末に掲載されている参考文献のボリュームに圧倒される。
本書は、「ウンコは汚いものなのか」という問いに始まり、最後は世界のあり方や未来について言及している。非常に奥深い内容なのだが、本記事では、本書の第7章「落し紙以前・トイレットペーパー以後」からごく一部を紹介して、同書の魅力を伝えたい。
私たちはウンコをトイレットペーパーで拭くのを常識としている。いや、ウォシュレットを使っているよ、という方もいるだろうが、やはり多くの日本人がトイレットペーパーでお尻を拭くのだ。オイルショックでトイレットペーパー騒動を経験したにもかかわらず、私たちが先の新型コロナウイルスの影響によるトイレットペーパー買い占めで、一時的とはいえヒヤヒヤさせられたことが、それを証明している。
さて、私たちの生活に欠かせないトイレットペーパーだが、本書によると、ちり紙を含めた「落し紙」が誕生する以前、人々は植物の葉、皮、茎、木片、棒切れ、海藻、縄などで拭いていた。季節性や土地柄で使われるものに違いが見られるが、中でも、かなり多くの地域で使われていたものは「蕗(ふき)」だという。その理由は、葉が大きいこと、当たりが柔らかくて使いやすいこと、たくさんあること、楽に集められること、身近にあること、など複数ある。また、同じくらい頻繁に使われていたものに「葛(くず)」があり、生い茂る季節の差から夏は蕗、冬は葛、といった具合に分けられていた。本書は、お尻を拭く材料の違いが、季節の風情を感じたり、風土に根ざして生きる安定感に繋がったりしていたのではないか、と考察している。ちなみに、落し紙以前の海外に目を移してみると、アメリカのコーンベルト地帯ではトウモロコシのヒゲ、インドやインドネシアの田舎やスラム地域では指と水、サウジアラビアなどの砂漠地帯では指と砂、あるいは小石など、土地に根ざした自然物が用いられていた。
しかし、第二次世界大戦後、高度成長期を迎える各国は、落し紙へ移行していく。日本も大戦後、やはり落し紙のシェアが広がっていくが、実はオイルショックのトイレットペーパー騒動時点では、全体としてはトイレットペーパーではなく、ちり紙のほうが多かったという。その後、日本のトイレットペーパーは多様化し、白さを競った時代から色、香り、模様、肌触り、厚さなどに工夫が凝らされ、世界的にも衛生的で便利なトイレ事情の現在に至る。
本書によると、2020年の新型コロナウイルスの影響によるトイレットペーパー騒動は、日本だけではなく、世界中で起こった。鑑みるに、私たちはまだまだ、トイレットペーパーと切っても切れない仲が続くと、本書は見込んでいる。
一連のトイレットペーパーの歴史から、本書は何を考えるか。それは、「ウンコ」と「生きること」の関連性だ。ウンコを拭くトイレットペーパーだけでなく、衛生技術や衛生観念までもが世界的に普及した現在の世界の状況は、同一商品の流通によると見ることができる。しかし、それは同時に、自然物を使って季節の風情を感じたり、風土に根ざして生きる安定感に安堵したりする、などの価値観が失われた、ということでもある。ノスタルジーなのかもしれない。しかし、さまざまな価値観が世界規模で画一化されつつあるように思え、本書は一抹の不安を感じている。
さかのぼって考えると、出すためには食べる、それは生きるためにある。本書は、ウンコをさまざまな角度から見直すことで、「生きること」をあらためて考えさせてくれる。
文=ルートつつみ
(https://twitter.com/root223)