「お前にサンが救えるか?」アシタカの答えに隠された禅の教え。ジブリ映画で学ぶ混沌の時代の生き方

文芸・カルチャー

公開日:2020/12/25

禅の言葉とジブリ
『禅の言葉とジブリ』(細川晋輔/スタジオジブリ:編集・発行、徳間書店:発売)

 新型コロナウイルスという未曽有の厄災に見舞われた2020年。身体はもちろんのこと、心の状態を保つことの大切さを痛感した人も多かったことだろう。『禅の言葉とジブリ』(細川晋輔/スタジオジブリ:編集・発行、徳間書店:発売)は、“禅”の教えを、ジブリ映画を通して学べる本だ。

 著者は、禅宗のひとつである臨済宗の僧侶で、禅を伝える活動を幅広く行っている細川晋輔和尚(龍雲寺住職)。スタジオジブリ作品の大ファンであり、ジブリの鈴木敏夫プロデューサーの著書『禅とジブリ』(淡交社)に、対談相手のひとりとして登場した方だ。

 自分はなぜジブリ映画に惹かれるのか? その理由の一つを著者は、幼い頃から親しんでいた「禅」と共通するものごとの見方、捉え方が描かれているからではないかと書いている。

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 例を挙げると、『もののけ姫』で山犬のモロと主人公アシタカが、ヒロインのサンをめぐって対話する場面がある。

 ここで「お前にサンが救えるか?」と迫るモロに対し、アシタカは「わからぬ」と答える。「救える!」と言い切るのでも「救う!」と誓うのでもなく、わからない、と一見頼りない返事をするアシタカ。しかしそこに著者は感じ入っている。これは達磨大師の言葉「不識(ふしき)」と同じである、と。

「識(し)る」と「識らない」、あるいは「有る」と「無い」、「聖」と「俗」といった具合に、私たち人間はとかくものごとを二つに分けてしまいがちだ。しかしそうした心の持ちようから執着が生まれ、苦しみは消えないと達磨大師は説いている。

 禅の真髄である無心の境地「廓然無聖(かくねんむしょう)」に到るには、対立する二つの思考を捨てなければならない。「識る」も「識らない」もしらない――すなわち「不識」を、アシタカは自らの行いで実践している。

 その他、『魔女の宅急便』には『碧巌録』の「大死一番、絶後再び蘇る」。『火垂るの墓』には白隠禅師のお経『坐禅和讃』の「当処即ち蓮華国」。『風立ちぬ』には、茶道の言葉としても有名な「一期一会」。各作品の印象的な場面をとりあげ、そこに込められた監督のメッセージを禅の視点から読み解いていく。

 14本のエッセイに加え、後半には円覚寺管長の横田南嶺老大師(この方も『禅とジブリ』に登場)との対談が収録されている。現在、座禅会をはじめ多くの活動が制限されるなか、自分たち僧侶のすべきこと、できることとは何かを語りあう。

 細川和尚は、やむを得ず始めてみたオンライン座禅会が、意外といいものだったという。

「本堂の誰もいないところでカメラに向かってしゃべる。これがなかなかのもので。私がどこかに置き忘れてきてしまっていた新鮮さを与えてくれました」

 それを受けて横田老大師はこう答える。

「仏心、仏性なるものは、われわれがYouTubeをやろうが、オンラインをやろうが微動だにしない、かすり傷一つつかない(後略)」

 時代に即した禅のあり方と伝え方を、対談を通して模索しあう姿がある。

 帯の惹句にあるように、今は混沌の時代であると著者は書く。それでも、人生は生きるに値する、とも。生きることを肯定する前向きな心――それこそがジブリ映画と禅の大きな共通点ではないだろうか。

文=皆川ちか