小さな旅で小さな交流が重なり、大きな優しさに包まれるかのよう。コロナ禍においても人の親切を信じたくなる一冊

文芸・カルチャー

公開日:2020/12/26

『鎌倉 ひとり 10km』(新橋典呼/文芸社)
『鎌倉 ひとり 10km』(新橋典呼/文芸社)

 神奈川県鎌倉市というと、全国的には鎌倉幕府があった場所、大仏や寺院のある観光地としての印象だろうか。小生自身も、ほど近い横浜に在住しており、かの地には数回訪れている。なるほど低い山々と海に囲まれ、その中に市街地が広がり、寺院などの名所旧跡が点在する。都会の喧騒を離れてこの地を歩きたくなる人が多いはずだ。

『鎌倉 ひとり 10km』(新橋典呼/文芸社)は鎌倉を舞台に、ボランティアイベントの10kmウォーキングに参加した主人公の若い女性「万歩(まほ)」が道中に出会う人々との交流で、ほんの少しだけ成長する小さな物語である。本書にはスリルもサスペンスもなければ、熱烈な恋愛模様もない。しかし、ほんわかとした人々の優しさに包まれており、人と人との交流はこうありたいと思える。

 まずは万歩が参加したボランティアイベントについて紹介したい。諸事情により、今は行われていないのだが、親を亡くした子供たちを支える「一般財団法人あしなが育英会」の下で開催されていた「あしながPウォーク10」を基にしている。参加者が10kmを歩き、遺児たちの問題を考えてもらう趣旨で、協賛企業から育英金も団体に贈られる。作者自身も幾度となく参加していたが、中止となることを知り本作の執筆を決意したという。この会があったことを一人でも多くの人に知ってもらいたいとの想いからだ。

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 それだけに、主人公である万歩は作者の分身ともいえるが、その為か実に等身大の女性として描写されており、特段に何かが優れているわけでもない。参加当日は寝坊しているし、自宅から現地へ向かう道すがら「当日急に参加できなくなっても何も迷惑はかからない」と言い訳すら浮かんでいる。今まで何度も参加しているにもかかわらず、だ。だからこそ、読者は彼女をより身近に感じるはず。

 平々凡々を絵に描いたような万歩なのだが、それでも「人に対する優しさ」はなかなかのものであり、ややもするとお節介ともいえるかもしれない。だが、決してそれは他者を不快にさせるものではない。道中、外国人女性のリータと出会うのだが、リータは地名の「源氏山」をうまく発音できない。万歩はそれを放っておけず、即席の発音トレーニングが始まってしまい、短くも楽しいふれあいとなる。

 注目したい万歩の個性的な行動は、他にもある。源氏山へと向かう前に鎌倉を代表する神社「鶴岡八幡宮」へと立ち寄り、多くの参拝客に交じり拝殿へと向かうが、お賽銭を入れるか迷う。今まで健康や合格を祈ってきたが、今回は「歩かせていただきます」との挨拶が目的だからという。祈らないのにお賽銭は有りか無しかなんて、小生は考えたこともなかった。結局、他の参拝客を惑わせない為、神社の役に立てる為と100円を奉納するが、実に万歩の性格を表している描写だろう。

 物語は万事この調子で、ほんの少し助けたり助けられたりとのんびり進む。大きな事件は全くないし、色恋沙汰もない。なれど、それが実に心地よいのだ。昨今のコロナ禍で感染を恐れるあまり、他者とは物理的だけでなく心も離れがちだが、本来なら人と人がこうして小さな親切で助け合っていければ、社会は成り立つのだと思う。コロナ禍においては見知らぬ人との交流がしづらいのも確かではあるものの、疑心暗鬼に囚われるより、感染対策をしたうえでなら、ちょっとした気遣いはできるはず。

 読後、ふと「あしなが育英会」のことが気になり、公式サイトを覗いてみると、トップページには【コロナ禍で困窮する全奨学生7,612人に〈年越し緊急支援金〉】の報せが。やはりこの状況下で困窮する人々は少なくない。本書をきっかけに「あしなが育英会」に興味を持ったなら、少しでも優しさを分けてほしい。その為にも、一人でも多くの人にお勧めしたい一冊だ。

文=犬山しんのすけ